胆振東部地震から4年。北海道内で初めて最大震度7を記録した地震で、40人以上の尊い命が奪われました。厚真町、むかわ町、安平町では前例のない規模の土砂崩れが発生し、震源地から離れた札幌市や北広島市でも大きな被害を受けた住宅地がありました。そして、北海道全域の大停電(ブラックアウト)により、生活に支障をきたしました。

毎年、9月6日が近づくと、地震のことが思い出されます。当時の記録は社内文書に残しましたが、文書に書くことができない個人的なことや社員の苦労があります。この機会に当時の様子を書いてみます。

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【写真】8月30日の北海道新聞朝刊社会面から

2018年9月6日木曜日の午前3時7分、私は旭川駅前のルートインGrandで就寝中でした。旭川市は震度4でしたが、揺れが長く続き、震源地は近くではないと思いました。テレビをつけると各地の震度が報じられ、想像以上に大きな地震だとわかりました。自宅のある北広島は震度5で、自宅に連絡しましたが、被害はないとのことでひとまず安心、その後、テレビを見ていましたが、停電となり、そのまま寝入ってしまいました。

9月4、5日はスタルヒン球場で道新文化事業社などが主催するファイターズの2連戦(いずれもナイトゲーム)があり、私を含めて7人が出張し、全員がルートインGrandに滞在していました。北上した台風の影響で、試合が実施できるのかと心配しましたが、無事2試合とも開催し、5日の試合終了後は、社員とホテル近くの居酒屋で痛飲して、日付が6日になった頃、部屋に戻りました。

午前6時前に再び目覚めましたが、電気はつきません。同じホテルに宿泊していた山崎社長(当時)と連絡を取り合い、とりあえず、朝食会場に7人か集まりミーティングをすることにしました。

朝食会場のレストランは停電にもかかわらず営業しており、ホテルのスタッフの対応は申し分ありませんでした。1人を除いた6人が集まり、今後の対応を協議しました。JRは不通で、運行再開の見通しがわかりません。会社は機材や備品の運搬のために車(トヨタハイエース)を借りていたので、球場で荷物を集荷し、その足で札幌に戻ることにしました。一度解散して、ホテル前に7人が集合したのですが、立体駐車場に止めていたハイエースは、停電のため、出車することができません。急遽、タクシー2台を手配しました。球場で荷物を詰め込み、2台に分乗し、高速に入りました。すでに量販店の前では行列が発生していました。

私は前の車両に乗っていましたが、深川インターチェンジ手前で、後ろの車両から、エンジンの調子が悪いと連絡が入りました。悪い時にはトラブルが発生するものです。代替車を呼び、前の車は先に出発しました。江別西インターチェンジから一般道に降りましたが、停電で信号が止まっています。都心に近づくと、スーパー、銀行、コンビニの前の行列が目立ちました。昼頃、ようやく大通西3丁目の会社に到着しました。

急な申し入れにもかかわらず、さらに信号が機能しない状況の中を3時間近くも運転したドライバーさんには助けられました。同乗していた山崎さんが運転席左に掲示してある氏名を見て、「運転手さんは高平さんですか、旭川だと陸上の高平選手と関係があるんですか」と声を掛けました。「そうなんです。息子なんです」、同乗者3人ともびっくりです。オリンピック選手高平慎士さんの父親とこんな時に出会うことができると夢にも思いませんでした。

会社に戻ると、当時部長だった塩野谷さんと総務グループの大場さんが徒歩で早朝から出社し、対応していました。事務所の電源が使えなくなり、隣の事業センターから電源を借りたり、社員の安否確認や社内外の連絡業務、急遽休業したプレイガイドの対応などをその後加わった社員(徒歩、自転車で通勤可能な者)と担っていました。助かりました。社内は自家発電により電気は使用できましたが、新聞製作を最優先にするため、照明を落とし、不要不急の業務を避けるように指示がでていました。

社内固定電話も一時不通になるなど問題が発生しましたが、その後復旧しました。たまたま当日は主催公演がなかったのも幸いでした。主催公演中に地震が発生したら大変です。会社の周りの飲食店や商店も休業していましたが、社内にはケータリング用の菓子類、ペットボトルが残っていましたので、代用食としました。気になったのは、社員からSNSで水道がまもなく止まる予定だ等のメッセージが入っていると聞いたことです。東日本大震災の後、盛岡市の友人に当時の状況を聞いたら、停電でテレビが見れなく、情報を入手することができないことが不安だったとのこと。そうした状況で、SNSで正確でない情報=デマが拡散する可能性は少なくありません。

午後4時過ぎ、さて私も家に帰るかと思いましたが、公共交通機関は運行する見込みがありません。タクシー会社に連絡して予約を取る方法も考えましたが、こうした事態では難しいと思い、グランドホテル前のタクシー乗り場に向かいました。タクシーは見当たりません。そもそも駅前通りを走っている車が少ない状況でした。札幌駅に移動して、南口タクシー乗り場に着くと長蛇の列でした。1時間半ほどたってタクシーに乗り込みました。乗る際に同じ方向に行く人がいないかと声をかけましたら、北郷、新札幌、新千歳に向かう人がいたので、一緒に乗りました。街灯や通りに面する商店や家屋の灯が消え、どこを走っているのかわからない状況でした。新千歳空港に向かう女性は、私の娘と同じ年で埼玉県在住の日本マクドナルドの社員とのこと。宿泊したホテルが閉鎖となり、空港に行けばなんとかなると思ったとのこと、車中、ネットで調べると空港も閉鎖となっているので、自宅に泊めることにしました。困っている人と遭遇した場合、できるだけのことをするのが北海道人の務めです。

自宅では妻と母が待っていました。自宅は停電でしたが、プロパンガスのため、煮炊きの支障はありませんでした。冷凍庫で溶け始めた食材を料理し、キャンプ用のランタン、ろうそく、自転車のライトを駆使した明るい食卓を囲みました。
帰宅して初めてわかったのは、地震より台風の被害が大きかったことです。自宅は無落雪住宅ですが、屋根に設置していた簀の子が風のため落下していました。

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【写真】2018年9月6日夕方、札幌駅南口タクシー乗り場

翌7日、JRは不通でした。信号が機能していないため、車の運転も大変なので、ロードバイクで片道20㎞を走りました。最初は自転車専用道路・エルフィンロードを使用していましたが、自宅から約5㎞先の「自転車の駅」付近で、倒木のため道がふさがっていました。これは地震でなく台風の影響と思われました。札夕線(国道274号線)に移動し、南郷通を経て、札幌市民交流プラザの駐輪場に自転車を置きました。

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【写真】通勤途中の北広島市稲穂公園。強風で倒れた木。2018年9月8日撮影。

その日も連絡事項を中心に業務をし、夕方またロードバイクで帰宅しました。社員はこのような状況で黙々と業務に励んでいました。昼前に社員のために買い出しにいきましたが、食料を入手することが難しい状況でした。そうした中で、セイコーマート時計台前店には助けられました。さて、帰宅後、往復3時間の疲れを癒すためビールを飲もうとしましたが、冷蔵庫は食品庫と化したため冷たいビールを飲むことができませんでした。

自宅に電気がついたのは8日夜です。停電がこんなに長く続くとは思っていませんでした。というか北海道の脆弱なインフラにあきれました。それまでは土鍋で米を炊き、缶詰やレトルトで食事をつくりました。東日本大震災の後、無駄な電気を使いたくないと思い、土鍋で米を炊くことをマスターしたのが助かりました。米と同量の水を鍋に入れ、1時間ほどたったら、コンロに火を点けます。沸騰したら弱火にして10分、消して10分蒸らすだけです。フライパンで米を炒めて、透き通ったらスープを何回も入れて煮るリゾットの作り方も覚えていました。リゾットの場合は米を洗う必要がないため、楽です。20分あれば完成です。普段から、米と小麦粉はストックしましょう。

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【写真】震災の翌々日8日、丸井今井でとんかつ弁当を買おうとしたが、ごはんは売れ切れ。カップ麺に具をのせてとんかつラーメンにしたら、社員に好評だった。

震災直後、社員が自発的にLINEで緊急連絡網を整えました。そう言えば、旭川に残してきたレンタカーを引き取りにいった社員もいました。会社では、社員用に食料を含めた防災グッズや照明、バッテリーを備えたラジオを購入しました。自宅用にはスマホを充電するカーアクセサリーを購入しました。いずれも、使う機会はありません。それでも備えがあることが安心につながります。

先日、被害の大きかった安平町をロードバイクで走りましたが、私の知らないことが多々あると思います。地震発生の時間が私たちの主催する試合や公演に重なっていたら、いったいどんなことになっていたのでしょうか。そのような状況が発生した場合、はたして、入場者や関係者、社員の安全を守れるのか、真摯に向かい合う必要があります。そうした意味で、過去の出来事を振り返ることは大事なことです。