歴史小説を中心に膨大な著作を残した司馬遼太郎さんについて前回、お話ししました。旺盛な執筆の原動力は? この問いに、わたしは「彼が新聞記者だったからだ」と答えました。
司馬さんのことを考えていて、ある作家の名前が浮かんできました。その人とは……米国人作家のアーネスト・ヘミングウェーです。ヘミングウェーも司馬さんに劣らず、多くの小説を残しました。ノーベル文学賞を受賞した「老人と海」をはじめ、「日はまた昇る」「誰がために鐘は鳴る」「武器よさらば」……。わたしは司馬さんの時と同様、こうした著作を生んだエネルギーは一体、何だったのかと問います。答えは、やはり…。
「新聞記者だったから」
司馬さんと二重写しになりますが、この米国作家も最後まで、新聞記者の精神(エスプリ)を失わない人でした。人に会い、話を聞き、取材を重ねる……記者の基本の上に、作品が成り立っているのです。世界中が新型コロナウィルスの感染に直面し、閉塞的な環境に置かれている中、彼のある小説が読み継がれ、コロナ下の現象にとどまらない人気が続いている。こんな記事を紙面で読みました。その作品とは? みなさん、「移動祝祭日」を読んだことがありますか(原題は「A Moveable Feast」と言います)。
この作品は、作家が散弾銃で自殺した1961年の3年後(つまり1964年)、遺品を整理する中で発見され、世に出ました。高見浩さんの翻訳により新潮文庫から発刊されているので、いつでも読むことができます。20歳代の多感な6年間をパリで過ごしたヘミングウェーにとって、このまち=パリ=に対するオマージュ(賛歌)ともいえる作品です。
ではなぜ、この作品がいま読み継がれているのか。それは、コロナに抑圧された人々が、日常を取り戻そうと苦悶する中で、再生に向けた希望の光を見出しているからだといいます。久しぶりにこの作品を読み返してみて、「なるほど」と思いました。
この作品は冒頭、あの有名な言葉で幕を開けます。
「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで過ごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」
実はわたしも「幸運にも」、20代の1年間、パリでジャーナリズムの勉強をする機会があり、それが、その後、約4年間のパリでの特派員としての仕事につながりました。それだけに、この言葉はリアルに胸に迫ってきます。いまやパリは世界の中心の地位をニューヨークなどに譲りましたが、彼が暮らした、二つの大戦のはざまの頃は、世界中から知識人や芸術家がここに集い、日々、祝祭のような喧噪に包まれていたのです。
当時、新聞記者だったヘミングウェーは、新しい時代を切り開くこのまちの息吹に圧倒され、「自由と寛容」にジャーナリズムの原点を見ます。作品では、日常感じた素朴な疑問が次々と発せられていきますが、そこに、こんなくだりがありました。
「時代を動かす風はロンドンではなく、なぜ、パリに吹くのだろう――」
残念ながら自身は答えを示していません。
そこで、前回登場した司馬遼太郎さんに解説をお願いしましょう。司馬さんは「街道をゆく」シリーズで全国各地はもとより、世界に赴きましたが、海外編の中にアイルランドを旅した異色の「愛蘭土紀行」(上下2巻、朝日文庫)があります。

写真4(「街道をゆく」シリーズでアイルランドを旅し、ケルト文化の粋に触れました)
この中で司馬さんはその疑問に答えています。その答えとは。「19世紀から20世紀にかけて、欧州各国には素晴らしい創造の花が咲いたが、英国は残念ながら多くを生み出さなかった。(中略)規律と秩序を過度に重んじる国からは柔らかな発想は生まれにくかったのでしょう」。規律と秩序に絡まれ、自由度を失い、忖度が蔓延する。いまの日本も、全く同じ状況です。つまり、この国からは何ら創造的なものを生み出せないのです!
「移動祝祭日」の中で、ヘミングウェーは自ら、新聞記者という職業の大切さについて触れる箇所があります。「記者の存在」に対する自問自答。その答えは……
「自由闊達、他者に依存しない自立、権力との対峙」
まるで、司馬遼太郎さんの口から出たような言葉。時代と国が変わっても、この職務の役割は不変であるかのようです! 前回同様、わたしはこの仕事を選んだ人生の選択に悔いはない。こう語って、今回を締め括ろうと思います。