それまで聞いたことのなかった米国人女性の名前が、“彗星のごとく”登場したのは、1990年代前半のことでした。



わたしは当時、北海道新聞の記者として東京で政治を担当していました。政治中枢である官邸や自民党本部、国会を歩き回る中で、憲法に対する知識を深める必要性を強く感じていた頃です。そんなときに飛び込んできたのがこの女性だったのです。


ベアテ・シロタ・ゴードンさん。ミドルネームの「シロタ」の響きが日本語の「白田」を連想させたため、最初は日系人かと思いましたが、日本の血は全く流れておりません。ユダヤ系ウクライナ人を父母に持つ、ウィーン生まれの女性です。



ゴードン
写真1(憲法の草案づくりに貢献したゴードンさん。日本に愛情を注いだ人生でした)


生い立ちはのちほどお話しするとして、その名前が世に出たのは、当時ニューヨークに在住していた彼女が、沈黙を破り、自ら“ある事実”を公表したのが発端です。



「わたしはGHQで働き、日本国憲法の草案づくりに関わりました」



みなさんご承知の通り、さきの大戦で日本は広島・長崎への原爆投下を経て、300万人もの犠牲者を出す凄惨な戦争に終止符を打ちます。米国を中心とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれ、1947年(昭和22年)には日本国憲法が施行されました。マッカーサー総司令官の指揮に基づき、憲法が起草されたのはみなさんご承知の通りです。


戦後日本の出発点となった日本国憲法の起草に関与した! この告白は、国内のマスコミで大きく取り上げられ、“時の人”となります。その後、何度も来日して、記者会見や全国各地の講演会に臨み、国会でも証言しました。わたしは、東京・内幸町の日本記者クラブで開かれた彼女の記者会見に出席したことを鮮明に覚えています。



憲法24条
写真2(ゴードンさんの草案が採用されたのが、結婚や家族のあり方を定めた第24条です)


父親は、“リストの再来”とも言われたピアノの名手、レオ・シロタ氏です。当時、親交のあった作曲家山田耕筰氏の招きで来日し、東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授に就任したことが、一家の日本との出会いでした。当時5歳だったゴードンさんは、戦局の悪化に伴い、15歳で米国に渡りますが、幼少期の約10年間を東京で暮らした彼女にとって、日本は第2の故郷。戦後日本の復興に力を尽くしたいとの熱い思いで再来日し、GHQの民生局スタッフとして憲法起草に携わることになりました。


日本の慣習をよく知るだけに、たとえば、親が娘の嫁ぎ先を決めたり、長男しか遺産相続が認められていなかったりする現実を抜本的に変える必要があると訴えました。結婚や家庭のあり方を規定する憲法第24条の文案にその思いを込めたといいます。


2005年には彼女の半生を紹介するドキュメント映画「ベアテの贈りもの」が製作され、東京・神保町の岩波ホールを皮切りに、道内を含む全国で上映されたので、ご覧になった方も多いでしょう。市川房枝や緒方貞子といった日本人女性の活躍に道を開くことになった功績にも光を当てています。



ベアテの贈りもの
写真3(ゴードンさんの足跡を紹介するドキュメント映画が全国で上映されました)


先週17日、札幌地裁で画期的な判決が下されました。同性婚を国が認めないのは憲法に反する(違憲)とする初の司法判断が示されたのです。同性カップルの置かれた現代社会に風穴を開ける判断として、大きく報道されたので、記憶に新しいことでしょう。これを機に、あらためて注目が集まったのが「憲法第24条」でした。


同性婚訴訟
写真4(同性婚を認めないのは「違憲」。札幌地裁の判決に喜びの輪が広がりました)


今回訴訟を起こした道内3組の同性カップルは、「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する」と定めた24条は、同性カップルにも婚姻の自由を保障するものだと訴えていました。ただ、判決では、24条は異性婚について定めたもので、「同性婚を認めないのは24条に違反することにはならない」と結論づけました。


この条文は今後、同性愛者の権利との関連、つまり同性婚の婚姻が法に基づいて正式に認められるかどうかを考える上で、必ず引き合いに出されるでしょう。戦争直後の憲法制定時には、同性愛者の権利については想定外だったと言えます。「両性」とはあくまで男と女を前提にしたものでした。しかし、両性には男女双方を含むか、含まないか。今回の司法判断を踏まえて法整備を図っていくことは、新しい時代の潮流であり要請であるのは間違いありません。急がなければなりません。


ジェンダーを考える中で、大きな主題として浮上してきたのがLGBTです。次はこの問題に触れてみます。