2016年の秋、札幌厚別区に開館した「北海道博物館」の記念特別展として、ブザンソン美術館の「夷酋列像~蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」と題した、大掛かりな展覧会が開かれたことを前回、紹介しました。
会場にはブザンソンから運ばれた11点の“本物の夷酋列像”が展示されました。道東アイヌの指導者を描いた蠣崎波響の連作が道民に一挙公開されるのは、初めてのことでした。行方が全く分からなかった列像が、フランス東部のブザンソンで発見されたのは1984年。実に32年を経て実現した「幻の絵画」の里帰りだったのです!
この年、夷酋列像は全国で「ブーム」を巻き起こします。それは、札幌で開催された特別展が日本を代表する二つの国立博物館に巡回し、首都圏、関西圏のファンにも蠣崎波響の名画の世界が広く紹介されたからです。
みなさんは訪れたことがありますか。ひとつは国立歴史民俗博物館(歴博)、もうひとつは国立民族学博物館(民博)です。日本の歴史や民族学に関心のある人にとって、いずれも必見の施設です。歴博は千葉県佐倉市の城址公園の一角に、民博は大阪府吹田市の大阪万博の跡地に、それぞれ存在します。
特別展の両博物館への巡回は、この展覧会の意義の証でした。アイヌの肖像画の持つ価値に加え、北の最果て、松前藩の秘宝がなぜフランスのブザンソンで発見されたのか。そのミステリー性が反響を増幅したと言えます。鮮やかな色彩と微細な線に及ぶまでの写実性、そこに描かれたアイヌの長老たちの、深い知性と勇気をたたえる風格…。全国の美術ファンの目を引き付け、アイヌの絵巻物の世界へといざったのです。
今回が夷酋列像のストーリーの最後ですので、記録の意味も兼ねて、波響の描いた全員の名前をもう一度、列挙しておきます。12人はいずれも1789年、和人の過酷な圧制に抗議して道東アイヌが蜂起した「クナシリ・メナシの乱」の際、松前藩の要請に応じて鎮定に協力した長老たちです。その名は、マウタラケ、チョウサマ、ツキノエ、ションコ、イコトイ、シモチ、イニンカリ、ノチクサ、ポロヤ、イコリカヤニ、ネシコマケ、チキリアシカイ。このうち、イコリカヤニの1点だけが欠落していることは何度もお話ししました。
東西の双璧である両博物館は一線級の研究者が名を連ね、学術研究が進められています。ここで夷酋列像が展示されたのは名誉ある出来事ですが、そのとき、胆振管内白老町にウポポイ(民族共生象徴空間)が誕生していれば、その主要施設である国立アイヌ民族博物館こそが、特別展の会場として最適の場所だったのではないでしょうか。
特別展の開催に合わせ、日曜朝のNHK・Eテレ「日曜美術館(日美=nichiBi)」や全国紙、美術雑誌も大きく取り上げ、蠣崎波響や夷酋列像への多角的なアプローチを試みました。夷酋列像の魅力はマスコミをも捉えてやまなかったのです。
本家本元の松前にも「変化」が生じます。蠣崎波響の夷酋列像について、町民たちはそれほど大きな関心を抱いていなかった感があります。しかし、作品の知名度が高まり、美術ファンの目が松前に注がれるにつれ、道内唯一の城下町として繁栄した松前の象徴として、町民意識が高まっていくのです。
道立松前高校ではフランス・ブザンソンとの交流が年を追うごとに活発化します。町の後押しもあり、生徒の代表が渡仏し、ブザンソン市民と交流行事を繰り広げます。歴史の力はやはり偉大です。道内広し、といえども、松前以外にこうした文化交流が生まれる場所はほかにないでしょう。北海道新聞の記事を拾っているうちに、ふと、ブザンソンを訪れた高校生の書道パフォーマンスに目が留まりました。
松前は、書道界を代表する傑出した人物を世に出しているのをご存知ですか? 金子鷗亭(かねこ・おうてい)。ひらがなと漢字を合わせた近代詩文書を提唱した屈指の書家です。1990年に文化勲章を受章したと聞けば、その功績の大きさが分るでしょう。松前を舞台に「筆」で生業を立てた蠣崎波響と金子鷗亭。その伝統が同校に継承され、さらに夷酋列像が繋いだブザンソンへ。文化とは何と奥深い循環を生み出すことでしょう。
アイヌ民族の存在と歴史がなければ、道内にこれほど興味をそそる物語は誕生しなかったはず。そして、そもそも夷酋列像の話を始めたのは……そう。「多様性」(ダイバーシティー)を考えることが発端でした。では、その原点にもう一度、戻ってみましょうか。