メルメ・カション。多くの人はこの神父の名前を初めて耳にすることでしょう。
彼こそが、蠣崎波響の名画「夷酋列像」を松前からフランス東部のブザンソンに運び去ったのでは…。わたしが勝手に目を着けている人物です。
メルメ神父は1859年から4年間、幕末の箱館に滞在しました。実にナゾの多い人物ですが、まずは、ざっと、その経歴をたどってみる必要があります。波乱万丈とは月並みな表現です。野心あふれる語学の天才、すばしっこくて神出鬼没。まるで怪盗ルパンのよう…。こんな人物を思い描きながら見てみましょう。
神父は1828年、フランス東部ブザンソン郊外の小さな村レ・ブーシュウに生まれました。ブザンソン郊外です! これについては、のちほどお話ししましょう。1852年、24歳でパリに出て、宣教師を養成する外国宣教会神学校の門を叩きます。その2年後、司祭(神父)に。新たな人生の幕開けでした。

写真2(パリ7区バック通り128番地にある外国宣教会。メルメ神父もここで学びました)
みなさん宣教師というとだれを想像しますか。1549年、日本にキリスト教を初めて伝えたフランシスコ・ザビエルでしょうか。ザビエルはスペイン人ですが、パリで仲間とともにイエズス会を設立し宣教師となります。時代が変わっても、その役割は同じ。カトリック信者の獲得、拡大こそが天命です。地球の果てまでイッテQ…とばかり、どんな苦難も乗り越えて、前へと突き進む。これこそ宣教師です!
1850年代の日本を想像してみてください。徳川幕府の衰えを見透かすかのように、開国を求める海外の圧力が一気に強まります。1853年のペリー来航、翌年の日米和親条約締結。下田と箱館が開港されたことで、1639年から200年以上も続いた鎖国政策は崩壊します。イギリス、フランス、ロシア、オランダ…。欧州列強との間で日本にとって極めて不利な不平等な条約が次々と締結されていきました。
メルメ神父がフランス商船リヨン号に乗り込んで当時の琉球王国に着いたのは1855年。まだ日仏間に修好通商条約は結ばれていませんが、日本はすでに鎖国のたがが外れ、外国勢力の草刈り場と化します。キリスト教の流入も阻止できぬほどに弱体化していたのです。
神父は琉球滞在中に日本語を完璧にマスターしました。すごい語学能力です。1858年に日仏修好通商条約が締結された際は、フランス政府の公式通訳に採用され、調印の現場に立ち会います。幕府の外国奉行だった水野忠徳をして、あまりに流暢な日本語に「これほど驚いたことはない」と語らせるほどの、見事な日本語使いだったのです!
そして、いよいよ北海道との出会いが訪れます。1859年、“本業”の宣教師として箱館へ。現在の函館西部地区の一角に土地を購入して教会を建てます。これが現在のカトリック元町教会で、その初代神父に就任しました。箱館にはその後、4年間滞在しますが、布教の傍ら、フランス語の語学学校を開校。病院建設も計画したといわれます。
得意の語学力を生かして「英仏和辞典」や「宣教師用会話集」を編纂したほか、アイヌ民族への特別の関心から「アイヌ語小辞典」の編集も試みました。まさに「異才」(マルチ・タレント)の持ち主だったのです。
北海道で暮らした4年間。アイヌ文化に親しんだ神父は、松前藩との関係も深めたとされます。もし「夷酋列像」の存在を知ったなら……。当時、彼が残した書簡の中に「大変に貴重なものを頂きました」といった記述が見受けられます。「大変貴重なもの」とは一体何を指すのでしょう。貴重なものは誰から頂いたのでしょう。これも判然としませんが、「貴重なもの」を「夷酋列像」に置き換えてみて、松前藩の秘宝である「列像」を、素性の怪しい外国人宣教師に手渡すことなどありうるのか? 常識的にいえば「否」です。
神父は1863年、突然、箱館を離れて上京します。語学力を売り物に“就活”に励み、手に入れたのが、初代駐日フランス公使の通訳のポスト! 江戸駒込の寺の娘(メリンスお梶)と同棲していたとの記録も残ります。しかも、これで終わらないのが“怪僧”の異名を取る聖職者! 舞台は1867年にパリで開催された万国博覧会。日本は将軍の名代として徳川昭武を送り込みますが、パリの万博会場でナポレオン3世と昭武の日仏会談の場に、同時通訳として居合わせたのが…そう、メルメ神父だったのです。
パリ万博を最後に消息は途絶えます。神父の職を捨て、1889年に南仏ニースで死んだらしい…と。幕末の日本とフランスを股にかけて駆け抜けた、あっぱれな人生でした!