1週間ほどの年末年始の休暇をみなさんはどのように過ごされましたか。静かに穏やかに。コロナウィルスの感染拡大が収まらず、日常生活の「行動変容」を迫られているわたしたちにとって、かつて経験したことのない、重苦しい年の幕開けとなりました。


もし、「コロナの恵み」があるとすれば…。読書の時間が増え、知的な思索を楽しむ喜びに触れられたことかもしれません。


わたしは、書棚からかつて読んだフランスの小説家スタンダールの名作「赤と黒」(小林正訳、新潮文庫)を取り出し通読しました。以前にお話しした通り、スタンダールはフランス東部、スイス国境に近いブザンソンの出身です。「赤と黒」の舞台にこのまちを選んだのは、作家の生まれ故郷に寄せる思いがあったからでしょう。



スタンダール
写真1(スタンダールはペンネームで、本名はマリ・アンリ・ベール。1783~1842年)

わたしが、この作品の再読を思い立った理由は? 松前藩家老・蠣崎波響が描いたアイヌ長老の肖像画の連作「夷酋列像」が海を渡り、1万㌔も離れたここ、ブザンソンの美術館で見つかったから。ブザンソンという都市には、他のフランスのまちとは異なる、不思議な思いが沸き起こるからにほかなりません。



ブザンソン
写真2(美しいまち並みで知られるブザンソン。中世から繁栄を続けてきました)



スタンダールはこう書きます。

「ブザンソンは単にフランスでもいちばん美しい都会の一つであるばかりでなく、勇気のある人間や、才知のある人間がたくさんいる」


これは主人公のジュリアン・ソレルが、ブザンソンを初めて訪れたくだりです。



赤と黒
写真3(「赤と黒」はスタンダールの代表作。生まれ故郷のブザンソンが舞台です)


19世紀初頭のブザンソンは、かつてない繁栄を謳歌し、フランス東部、スイス国境に近い地方の中心として文化的にも爛熟期を迎えていました。波響が描いた幻の「夷酋列像」が、「赤と黒」の舞台であるブザンソンへ運ばれてきたのは、いつのことだったのか。誰が、どのような方法で。


夷酋列像の話を始めてはや10回目となります。波響の名画「夷酋列像」全12枚のうち11枚がブザンソン美術館で発見されたのはいまから37年前の1984年のこと。さまざまな調査の結果、波響唯一の原画であることが確認されたものの、この作品がなぜブザンソンにあるのか。最大のナゾはいまだに解明さていないのです。


そこで、わたしは前回と前々回、その謎解きとして、旧幕府軍とともに箱館戦争を戦ったフランス人ジュール・ブリュネが略奪に関与したのではないかと書きました。しかし、その推理もブリュネの孫への取材で消え失せた…。ここまでが前回の展開でした。では、疑わしきは誰なのか。さらなる推理を繰り広げてみましょう。


「第2部」に入る前に…冒頭、わたしはスタンダールの「赤と黒」を正月休みに読んだことを紹介しましたが、この本を再読しながら、スタンダールと蠣崎波響に不思議な縁を感じたことを記しておきます。「赤と黒」は王政復古という、ナポレオン失脚後の反動的な時代を背景にした政治小説です。1842年に59歳で世を去ったスタンダールは、フランス革命にはじまり、王政、帝政が繰り返された極めて不安定な19世紀フランスの証言者の一人でした。


一方、蠣崎波響はスタンダールとほぼ同時代、日本の最北端で生きました。武士として、画家として、政治家として。徳川幕府の長期政権に陰りが生じ、鎖国を解く海外諸国の動きが強まる中、歴史に消えた「蝦夷地の輝かしい時代」を絵画の世界に定着させ、後世に残したのです。このストーリーの中でも触れた「蝦夷錦」のまばゆい美しさを記録にとどめたのがまさに波響でした。


蝦夷地の画家とフランスの文豪。2人が不思議な糸で結ばれる運命にあったとしたら…これも歴史の偶然であり、必然だったのでしょうか。


先を急ぎましょう。ジュール・ブリュネに続いて、わたしの脳裏に「夷酋列像」の略奪者として浮かんだのは…。1859年から4年間、幕末の箱館に滞在した当時30代前半のフランス人神父です。名前をメルメ・カションといいます。


メルメカション
写真4(幕末に来日した神父メルメ・カションです。悪徳商人の役割を果たしたとの評判も)


この神父はどんな人物だったのでしょう。なぜ、カションが怪しいのでしょうか。次回、お話したいと思います。