「夷酋列像」の略奪に箱館戦争を戦ったフランス人ジュール・ブリュネが深く関与した。こんな“夢物語”を前回、披露しました。


そんなわたしにとって、その夢に迫る「決定的なチャンス」が巡ってきました! 1996年夏。パリ滞在中だったわたしは、ブリュネの子孫を取材する機会に恵まれたのです。偶然とは恐ろしいもの。取材先は、当時わたしが住んでいたアパルトマンからわずか200メートルほど、徒歩2~3分の距離にあったのですから。


テオフィルゴティエ通り
写真1(ブリュネの孫が住むパリ16区テオフィル・ゴーティエ街。豪壮な建物が並びます)


ことの経緯はこうです。歴史を誇る港町・函館は、国際交流が盛んですが、なかでも箱館戦争に従軍したブリュネの縁もあり、フランスとはさまざまな分野で交流が続いています。函館日仏協会の代表者がパリを訪問するのに合わせ、ブリュネの子孫に面会するので取材してもらえないか。こんな依頼が舞い込んだのです。


かねてブリュネが夷酋列像の略奪に関わったのではないかと疑惑の目を向けていたわたしは、この面会を利用して、夷酋列像の秘話が「ブリュネ家」に密かに語り継がれていないか、確かめたい。こんな“下心”を持って取材に臨みました。


箱館・ブリュネ
写真2(箱館で撮影された旧幕府軍の貴重な写真。前列左から2人目がブリュネです)


パリの市街地は、渦巻き状に1区から20区に分けられます。この中で、16区が最も高級な地区と言われています。札幌でいえば円山・宮の森あたりでしょうか。ただ、建物の重厚感や歴史の重み、街並みの趣は比較の対象にもなりません! ブリュネの子孫が暮らすアパルトマンはテオフィル・ゴーティエ(Théophile Gautier)という19世紀の著名な小説家・劇作家の名前を冠した通りの24番地にありました。

ここには、ブリュネの孫にあたるカトリーヌ・ブリュネさん(当時87歳)と2人の息子さん(エルベさんとエリックさん)が同居していました。シャンデリアの輝く居間には、15代将軍・徳川慶喜から拝領したという見事な日本刀が飾られ、書道の掛け軸や花瓶、扇子などジャポニスムの粋の数々が。その光景が脳裏に焼き付いています。


ひと通り取材を終えたわたしは、「ブリュネの血縁に会うまたとないチャンス」とばかり、ブザンソンで見つかった蠣崎波響の幻の絵画(夷酋列像)に話を向けました。「おじいさんは生前、この夷酋列像について何か語っていたことはありませんか」「ブリュネ家にこの絵にまつわる話が語り継がれていませんか」。こんな質問を継いだのです。

カトリーヌさんの答えはよく覚えています。「ブザンソンで北海道の有名な絵が見つかったと聞いた時は本当に驚きました。なにしろ、ブザンソンは祖父(ジュール・ブリュネ)が生まれ育ったベルフォールに近く、祖父と行動を共にした下士官の中にもブザンソンやこの地方出身の人がいたと聞いていますから。これも何かの不思議な縁でしょう」…。


ベルフォール
写真3(ブリュネの生まれ故郷はブザンソンに近いベルフォール。堅固な城郭都市です)


箱館とブザンソンを繋ぐ細い糸。この言葉に、わたしは小躍りするような高揚を覚えました。しかし、カトリーヌさんは続けて、夷酋列像と祖父との関係について、こう言って否定したのです。「それは全く聞いていませんし、そうした話がわたしたち家族に継承されていることもありません」



夷酋列像
写真4(あらためて夷酋列像の数奇な運命を思います。12枚中、欠けた1枚はどこへ?)


あと一歩のところまで迫ったのに…。わたしの推理のあっけない幕切れでした。ただ、ブリュネの出身地であるベルフォールとブザンソンが地理的に極めて近く、旧幕府軍に加わったブリュネの同志にブザンソン出身者がいた。こんなカトリーヌさんの伝え聞きには、かすかな希望を覚えました。(ブリュネの下士官にはカズヌーブ、マルラン、フォルタン、ブッフィエ…などがいましたが、ブザンソン出身者はだれを指すのか。わたしの調べはついていません)


ベルフォールとブザンソンはどちらも、フランス東部に位置するフランシュ・コンテ地方の都市で、ベルフォールはブザンソンの北東50㌔に位置します。古くから両都市の交流は盛んで、とりわけ郷土意識が強い地方でもあります。ここに17世紀(1694年)から存在するのが、フランス最古の美術館のひとつ…そう、夷酋列像が眠っていたブザンソン美術館(考古学博物館)なのです。日本から持ち帰った貴重な作品をパリではなく、出身地にある有名な美術館に運び込んで、極秘に保存を依頼した……としても。ここまでがわたしが膨らませた想像の世界だったのです。



夷酋列像を巡るうちに2020年が暮れようとしています。新型コロナウィルスの感染が一刻も早く終息するよう祈りつつ、新年を迎えた後、もう少し謎解きを続けましょう。