松前藩家老・蠣崎波響が描いたアイヌ長老の肖像画「夷酋列像」は、なぜフランスの地方都市ブザンソンに存在するのか。1986年の発見から34年が経過してなお、その謎は解明されていません。そこで、あくまで私見に基づき、その謎に挑んでみよう。ただし、学術的な根拠は全くない…。こんな「決意」をみなさんに示して前回の話を終えました。
わたしは北海道新聞のパリ特派員を経験した者として、「夷酋列像」が海を越えた経緯を解明できなかったことに対し、いまなお悔しい思いを抱いております。「発見」を報じた時と同様、「夷酋列像 渡仏の謎を解明」の記事が、大見出しとともに、北海道新聞の1面トップを飾る。こんなスクープが実現できなかったのは、(自らの努力は棚に上げて)ひとえに研究に大きな進展がなく、研究者の熱意も失せ、謎が「凍結」されたからです。
では、お約束した謎解きを始めましょう。まずは、わたしの問題意識から。「夷酋列像がフランスへ渡ったのは、戦争に乗じたフランス人の略奪行為であり、当事者は平然と持ち去って行った」。わたしはこうみています。
たとえば、みなさんがヨーロッパを旅行して、世界の芸術の殿堂と称されるパリのルーブル美術館、あるいはロンドンの大英博物館を訪れたとしましょう。世界を代表するその展示作品や収蔵物に圧倒される一方、その大多数が、実は過去の戦争と切り離せない関係にあると知って驚くはずです。それらは、戦利品や略奪品としてフランスやイギリスが戦地などから勝手に持ち帰ってきたものだからです。
「ミロのビーナス」や「サモトラケのニケ」(いずれもルーブル美術館)、「ロゼッタストーン」「エルギンマーブル」(同・大英博物館)…。枚挙に暇がありません。彼ら(欧米人)は文化財の略奪や盗掘に対し、何ら罪の意識を持ち合わせていないから困ったものです!
日本からも国宝級の浮世絵や仏像が第2次世界大戦の混乱期、米国などに大量に流出したことをご存知ですね。ナチスドイツが大戦中、欧州各国から美術品を略奪してドイツ国内に隠匿していたこともよく知られた話です。文化遺産は戦争や社会的な混乱の歴史と表裏一体をなし、翻弄され続けてきたのです。
とするなら、蠣崎波響の「夷酋列像」がフランスに流出したのは、戦争が背景にあるはずです。道南の函館や松前が戦乱の舞台となった…と聞けば、みなさんは思い当たりますね。江戸時代から明治維新への移行期。旧幕府軍と新政府軍の激戦の舞台となった箱館戦争です。この戦争にフランスが深く関与したのは、歴史を学んだわたしたちは知っています。
戊辰戦争(1868年~69年)として括られる一連の戦いは、いわば体制転換のクーデターでした。その最終局面が箱館戦争だったのです。主舞台は五稜郭。榎本武揚ら旧幕臣がここに立て籠り、臨時政府を樹立しますが、戦力に劣る榎本軍はあっけなく降伏、戦闘は終結します。鳥羽伏見の戦いから続いた旧幕府側の抵抗はジ・エンド。新政府による国内統一が完結したのです。
この機に乗じて登場したフランス人とは? 名をジュール・ブリュネ(1838~99年)といいます。フランス軍の士官で、江戸幕府が推進するが陸軍の近代化を支援するため、軍事顧問団の副団長としてフランスが派遣した人物。当時、フランスの為政者はナポレオン3世、日本は第15代将軍・徳川慶喜でした。徳川の治世はもはや末期的、危機的状況に陥っており、最後のあがきとして、親交の厚かったフランスにSOSを出したのです。

写真4(ジュール・ブリュネの肖像写真。夷酋列像の略奪に深く関与したはずです)
来日したのはブリュネをはじめとする総勢19人。しかし、これといった見せ場もないまま幕府軍は明治維新軍に敗北します。フランス軍は当然、お役御免とばかり、国外退去を迫られますが、ブリュネの取った行動とは……フランス軍籍を捨て、榎本武揚率いる旧幕府軍に合流して箱館戦争に従軍したのです。常軌を逸した奇策に出た訳は? 正直分かりません。しかし、万一、榎本が勝利すれば、自ら政権中枢に抜擢され新政権に加わったはずです。一か八かの懸けに。フランス人特有の衝動的で直感的、客観的にみれば無為な行動に走ったわけです。
現実はそう生易しくありません。結局、榎本は投降して敗北。漂う敗色を察知したブリュネは、五稜郭陥落の寸前、偵察のため箱館湾に停泊していたフランス軍艦(コエトロゴン号)に飛び乗り、9人のフランス人とともに横浜経由でさっさと本国へ帰還したのです! 機を見て敏。何というタマでしょう。
わたしはブリュネこそが「夷酋列像」の「略奪」に深く関わった人物だと信じて疑いません!