この写真を見て、どこか分かりますか?長~~いノーズ、流線形の車体が旅情を誘います。北海道新幹線の北のターミナル・新函館北斗駅です。


北海道新幹線
写真1(2016年3月に開業した新函館北斗駅。車体の鮮やかな紫色のラインが特徴です)

みなさん、新幹線で陸路、東京方面へ旅したことがありますか? わたしは3年前に一度、東京から新函館北斗駅に向けて利用しました。東京駅から4時間半。東北の都市をめぐり、車窓の景色を眺めながら、青函トンネルを超えるとまもなく到着です。飛行機では味わえない鉄路の旅を満喫しました。2030年の札幌延伸が待ち遠しいですね。

突然、北海道新幹線のお話をしたのには訳があります。新函館北斗駅に着いて、在来線に乗り換えようと2階の連絡通路を歩いていたわたしは、思わず壁面に目が留まりました。蠣崎波響作「夷酋列像」の陶板壁画が飾ってあったからです。陶板は、縦約3㍍、横約4㍍。フランス東部の地方都市ブザンソンで見つかった夷酋列像の原画をもとに、11人のアイヌの指導者たちの雄姿が見事に再現されていました。


新函館北斗駅
写真2(新函館北斗駅の連絡通路に飾られた夷酋列像の陶板。思わず目が留まります)

北海道を訪れる人たちにアイヌ文化を紹介しよう。こんな思いから、渡島・檜山地方のロータリークラブが合同で寄贈したとの説明があります。東京の専門業者に依頼し、特殊技術で焼き付けた陶板の制作には約150万円かかったそうです。波響はこの列像を松前で描いていますから、ここ道南はまさに夷酋列像の発祥の地。㏚効果は抜群です。

話が少し逸れました。前回と前々回の2回にわたり、列像の中からアッケシ(厚岸)のイコトイとクナシリ(国後)のツキノエを紹介しました。今回は3人目。ノッカマップ(根室)のションコについてお話ししましょう。


ションコ
写真3(根室の首長だったションコです。色彩が抑制されており全体の印象は地味です)

ションコは11人の中で最も目立たない存在だと思われがちです。少し猫背で、顔も横向き。イコトイやツキノエの迫力あふれる表情に比べていかにも地味な印象を持ちます。羽織っている衣装も黒が基調で、赤色が強烈な2人よりぐっと落ち着いて見えます。しかし、研究者によると、鋭い目つきでこちらをちらりと睨みつけるションコは、身体の筋肉の立体感といい、ち密な描写といい、11人の中で最も質感豊かだというのです。

今回、ションコを取り上げたのは、もうひとつ理由が…。2年ほど前、わたしはションコの存在に光を当てた新聞記事を目にしてから、その名前がずっと忘れられずにいたからです。記事は2018年1月23日付の北海道新聞(第3社会面)に掲載されました。内容はおおむね次のようなものでした。

<「江戸時代の1778年(安永7年)、松前藩が道東のアイヌ民族の有力者に宛てた文書が、ロシア・サンクトペテルブルクの国立図書館に保存されているのを、東京大学資料編纂所などのチームが発見した。松前藩がアイヌに送った文書としては最古の原本とみられ、松前藩のアイヌ政策を知るうえで貴重な資料となる>=前文=

本文を読み進めると……。<この文書は、松前藩がノッカマップ(現在の根室市)のアイヌ民族の有力者ションコに宛てたもので、①喧嘩・口論の禁止②アイヌと和人が交易で使う小屋の火の元の注意③和人の漂着船への救助と介抱④和人の漂流民を和人の滞在地まで送り届ける指示---の4か条で構成。順守しなかった場合は厳しい処分を科すと記されている>


ロシア書簡
写真4(ロシア・サンクトペテルブルクの国立図書館で発見された松前藩の文書です)

文書が発出されたのは、道東のアイヌ民族が蜂起したクナシリ・メナシの乱(1789年)の11年前。松前藩はすでにこの時期、道東地方のアイヌに対する支配を強めていたことがこの文書から明らかです。この中で、わたしが注目したのは、藩の重要な文書の宛先が「ションコ」だったという事実です。夷酋列像に描かれたションコの肖像画は地味ですが、松前藩が道東の首長の中で最も信頼を置いていた人物、それはションコだったのではないか! こんな推測が成り立ちます。

貴重な文書がロシア・サンクトペテルブルグの国立図書館で発見されたというのもミステリーですが、これは道東のアイヌの人たちが交易を通じていかにロシアと密接に結びついていたかを裏付ける手がかりとも言えます。ロシアと北海道は古くから交流が深かった。しかも、道東の島々が、もともとアイヌの人たちの生活の拠点であったことも、この文書は示しているのです。

いま一度、ションコの足元に注目してください。彼が履いているのは大陸から伝わった革靴です。これこそが、極東に存在した「北のシルクロード」を裏付ける証しです。フランス・ブザンソンと極東を繋ぐロマンの旅をもう少し続けましょう。