フランスの地方都市ブザンソンで発見されたアイヌの肖像画「夷酋列像」の中から、前回はアッケシ(厚岸)の首長だったイコトイを紹介しました。列像の中で最年少。立派な髭を蓄え、堂々とした体躯を誇る若き指導者です。

纏っている豪華な衣装は蝦夷錦と呼ばれる絹織物であることもお話ししました。これらはアイヌがロシアや中国との交易によって手に入れたものです。イコトイは蝦夷錦の上に西洋の服と思われる赤色の薄い上着を羽織っています。この衣装は、交易を通じてヨーロッパからもたらされたものです。蝦夷地は最果ての地ではなく、実は最先端の文化の発信地だった! こんな想像が成り立ちます。

そして、今回、2人目として紹介するのが「ツキノエ」です。
記録によると、ツキノエは国後島トウブイの首長で、1770年にロシア人が得撫(ウルップ)島に到来してアイヌを襲撃した際、アッケシの首長をイコトイに譲ってクナシリに赴き、ロシア人を征伐したと伝えられています。ロシアにもその名を轟かせたアイヌの英雄といってよいでしょう。


ツキノエ顔
写真1(クナシリ・メナシの乱の鎮定に最も貢献したのが長老ツキノエです)

絵を見て下さい。長身で腕力が強く、眉目秀麗! 波響の筆致にも自ずと力が漲っています。面構えは全く老いを感じさせません。ツキノエは生没年が不詳とされますが、クナシリ・メナシの戦いが起きた時、すでに70歳を超えていたと言われています。反乱を鎮静化しようと多くのアイヌを説得して歩くなど、収束に最も貢献した一人です。長い人生経験に裏打ちされた老獪さ…でしょうか。目をぎょろりと開けたその表情からは、得も言えぬ風格が漂います。

ツキノエは長いひげを蓄え、木彫りの椅子に腰かけていますが、その姿は、「三国志」で有名な中国の武将「関羽」を想起させると研究者たちは指摘します。みなさんはいかがでしょうか。しかし、息子のセッパヤは戦いを起こした首謀者の一人で、松前藩に身柄を拘束されて処刑されました。息子の犠牲と引き換えに実現した和平…。こう考えると、ツキノエの人生の別の側面が浮かび上がります。

この作品を前にして、わたしは蠣崎波響の精緻な筆遣いに驚きました。風貌の写実性と色彩感覚あふれる美しさ。その表情とポーズにも限りない魅力を感じたのです。


ツキノエ細部
写真2(ツキノエの右手細部。手を覆う毛の一本一本に至るまで精緻な筆遣いが伝わります)

アイヌの首長たちは日常的にこんな衣装を身に付けていたのか。研究者の間でこんな疑問が呈されました。結論は…波響が肖像を描くにあたって、松前藩に依頼して所蔵の衣装を着用させたのではないか、というのです。ただ、これほど原色を使った色遣いと大胆な構図は、日本固有の絵画の手法とは明らかに異なります。「エキゾチック」の言葉がぴったりです。

アイヌの人たちはこの衣装をロシアや中国との交易によって手に入れていたと書きました。この交易ルートは現在、「北のシルクロード」と呼ばれています。詳細については、次回、お話ししようと思います。アイヌというとみなさん、狩猟生活のイメージを強く抱かれるかもしれませんが、実は外国との経済活動に才覚を発揮していたことを覚えておきましょう。アイヌは決して貧しくはなかったことを!


ツキノエたこ
写真3(独特の表情のツキノエはタコの絵柄に使われるなど人気のキャラクターです)

前回紹介した立ち姿のイコトイは手に槍を持っていました。一方、ツキノエはどっしりと椅子に腰かけており、左手には短剣を所持しています。夷酋列像で描かれた12人(ブザンソンで発見されたのは11人)はそれぞれ、弓や槍や剣を手にし、鳥やシカ、クマなども描かれていて、当時のアイヌの人たちの日常の一端が見えてきます。波響の観察力の鋭さに加え、民族資料の観点からも高い価値を保っています。興味が尽きません。

波響が描いた12人はクナシリ・メナシの乱が勃発した1789年当時、どこで活躍していた人物なのか。一目で分かるイラストを見つけました! ここに掲載します。


12人の拠点
写真4(アイヌの人々は北方領土を含む道東各地に拠点を置き、交易を拡大していました)

叛乱の震源地となったメナシ・クナシリ(現在の中標津、国後島)を拠点にしていたのがツキノエ、チキリアシカイ、ポロヤ、イコンカヤニ(欠)の4人です。アッケシ(厚岸)からはイコトイ、シモチ、イニンカリ、ネシコマケの4人の首長が描かれています。ノッカマップ(根室)はションコ、ノチクサの2人、ウラヤスベツ(斜里)もチョウサマ、マウタラケの2人がそれぞれ肖像画に名を残しました。

次回はノッカマップ(根室)の首長ションコを取り上げ、「北のシルクロード」についても探っていきます。