日本から忽然と消えたアイヌの肖像画「夷酋列像」がなぜ、日本から1万㌔も離れたフランスの地方都市ブザンソンに眠っていたのか。謎の核心に迫っていきたいと思います。
わたしは長い新聞記者生活の中で、何か疑問が生じた時は必ず原点に戻ることの重要性を叩き込まれてきました。「夷酋列像」についても原点に立ち戻ってみる。それは、とりもなおさず、「発見」を報じた1984年(昭和59年)10月26日の北海道新聞を読み直し、精査することにほかなりません。そこには必ず、発見当時の経緯や状況が書かれているに違いないからです。それが書かれていなければ、記事は成立しません。
そこで、わたしは、36年前のその記事を、過去の道新紙面を保管している社内の書庫から探し出し、コピーを取って再読し始めました。実は、その作業は記録を職務とする新聞社といえども、意外に大変な作業でした。苦労の末、手に入れた当日の北海道新聞朝刊1面をここに掲載します。

写真1(夷酋列像がブザンソンで発見されたことを特ダネで伝える北海道新聞の紙面)
繰り返しになりますが、この記事はいわゆる道新の特ダネです。「自民党総裁選で中曽根氏再選」という本来なら1面トップとなるべき記事を横に押しのけ、「蠣崎波響の幻の名作がフランスで発見」が堂々のトップを飾っています。これこそがスクープです。当時の興奮が紙面から立ち上ってくる気持ちがします。
まず、夷酋列像の発見経緯について、記事は、同博物館の女性館長のコメントを引用する形でこう伝えています。「作品は博物館の倉庫に埋もれていたが、3年前(記事が掲載された1984年から3年遡ると1981年)、日本美術に詳しいパリ在住の専門家に鑑定を依頼して、貴重な作品であることが分った」というのです。
館長は、ブザンソンのこの博物館のコレクションが主に西洋美術品を収集していて、倉庫に眠っている「不思議な作品」の価値が分からなかったと語っています。この作品がいつからこの博物館に保管されているかについては「1930年(昭和5年)以前に入手したもののようです」と年代を示している点が注目されます。
それでは、鑑定を依頼したパリ在住の専門家というのは誰でしょうか。
美術ファンの方ならご存知でしょうが、パリにはルーブル、オルセーなど世界を代表する博物館や美術館が数多く存在します。その中のひとつに、日本や中国の東洋美術の収集で名高い「ギメ美術館」があります。ちょっと話がそれますが、日本を愛してやまなかった元フランス大統領のジャック・シラク氏(昨年9月に86歳で死去)は、その回顧録の中で、高校生の時、偶然立ち寄ったギメ美術館で日本の仏像と出会ったことが日本を愛好するきっかけになった、と書いています。
ブザンソンに眠っていた「夷酋列像」を鑑定したのは、当時、このギメ美術館の学芸員を務めていたクリスチーヌ・シミズさん(パリ在住の日本男性と結婚したフランス人女性)でした。クリスチーヌさんは浜地特派員の取材に対し「波響の真作とみて間違いない」とお墨付きを与えたのです。
浜地さんの記事をさらに追っていきましょう。
美術という専門知識が求められる分野でありながら、浜地さんは新聞記者らしい粘り強さで夷酋列像に迫ります。その記述をそのまま引用してみます。
<発見されたのは、12点といわれるもののうち11点。絵はそれぞれ縦45・5㌢、横36㌢の軽い木枠に張られた絹地に描かれている。雲竜紋、華麗な衣服が目を奪う色取りで、頭髪、あごひげが克明に描かれた全身像。鋭い眼光のアイヌのエシカ(酋長)たちの威厳に満ちた迫力が、フランスの美術関係者の視線を釘付けにしてやまない>
記事は次に、作品それぞれの細部に触れていきます。
<一枚ごとに描かれた人物の名前が記入されており、うちただ一人の女性像「チキリアシカイ」には「寛政二年初冬、臣廣年(ひろとし)画之(これを画=えが=く)」とあり、「さらに「臣廣年」「臣世枯(せいこ)」の印がある。他の絵には署名がない。廣年、世枯はそれぞれ、波響の本名と字(あざな)。ほかに波響の父の異母弟で、おいにあたる松前廣長(ひろなが)の自筆とみられる「夷酋列像序」があり、全文360字ほどの漢文で、「寛政元年のクナシリ・メナシの乱の際、藩側に協力したアイヌ有力者の肖像を藩主の命で波響が描いた」旨、連作成立の経緯が記されている>
やはり、原点に当たるものです。謎が解け出しました。さらに進めていきましょう。