日本から忽然と姿を消したアイヌの肖像画がフランスの地方都市で見つかった‼
前回、こんな話をして終えました。これからその謎に迫っていきましょう。
舞台はフランス東部のブザンソンです。みなさん、このまちの名前を聞いたことがありますか? フランスといえば首都のパリ、それに続くリヨン、マルセイユあたりはご存知でしょうか。いずれもフランスを代表する大都市です。ではブザンソンは?
スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の中心都市で、人口は約11万人。中世からドイツ、イタリアとフランスを結ぶ中継地として繁栄し、いまも森と川に囲まれた城塞都市として、美しい街並みを誇ります。パリからの距離は約350㌔。新幹線(TGV)に乗ると、3時間弱で到着します。
昨年の夏、札幌で上演され、好評を博したミュージカル「レ・ミゼラブル」をみなさん、覚えていますか? 原作者はビクトル・ユゴーですが、このフランスを代表する文豪の生誕地がここブザンソン。市内にはいまなお生家が残ります。では、映画技術の発明者として世界に名を残すリュミエール兄弟はご存知でしょうか? この兄弟もブザンソンの出身。ビクトル・ユゴーと並ぶ文豪スタンダールの代表作に「赤と黒」がありますが、この小説の舞台となったのもブザンソンです。
さらにもうひとつ。このまちは、1951年以来、毎年夏に行われる「ブザンソン国際若手指揮者コンクール」の舞台で、コンクールは指揮者を目指す世界の音楽家たちの登竜門になっています。日本が世界に誇る小澤征爾は1959年の第9回大会で優勝し、国際舞台への一歩を踏み出しました。佐渡裕も89年の第39回大会で優勝しています。音楽を志す者にとってあこがれの地、それがブザンソンなのです。
まちの中心部に位置する革命広場に面して、一般に門戸を開いているのがブザンソン博物館です。正式には「ブザンソン美術考古博物館」と言います。この博物館こそが、1984年(昭和59年)、日本の美術界を揺るがす震源地、発信源となった場所です。
ここで前回に繋がるわけですが、それでは1984年にこのまちで、何が起きたのでしょうか? 松前藩の家臣で画家として活躍した蠣崎波響(1764~1826年)の代表作でありながら、行方が分からず、「謎の絵画」と称されてきた「夷酋列像」(いしゅう・れつぞう)がこの博物館で発見されたのです!
話を整理してみましょう。まず、蠣崎波響は、江戸時代の中期から後期の絵師。彼が目標としたのは、京都で活躍する同時代の円山応挙(1733~95年)でした。その技術を習得するため、波響は「上洛」して応挙に師事し、蝦夷地に最先端の筆致を伝えました。「松前応挙」の異名を取るのはその証です。
中央から遠く離れた蝦夷地・松前で、応挙から学んだ技法を駆使し、27歳の時(1791年)に描いたのが「夷酋列像」でした。この列像は、前回お話しした通り、12枚の肖像画で構成されます。以前、作家船戸与一の「蝦夷地別件」を「読書の秋お勧めの一作」として紹介した際、この小説が1789年に蝦夷地で起きたアイヌの大蜂起「国後・目梨の乱」をテーマにしていると書きました。波響が夷酋列像に描いた12人は、まさにこの叛乱が発生した時、松前藩に協力して「鎮定」に力を尽くしたアイヌの長老たちなのです。
松前藩主だった松前道廣の命を受けた若き絵師、蠣崎波響渾身の「肖像画の連作」――。波響はこの作品を携えて再び、京にのぼり、時の光格天皇に「上覧」されたとの記録が残ります。ところがどうしたことでしょう! この肖像画は、その後、行方が一切分からなくなるのです。波響はこの作品を京都から松前に持ち帰ったはずですが、その足跡が辿れないのです。松前の波響の屋敷に保管されたのか、松前藩主に献上されたのか。それとも、幕末、激動の舞台となった箱館のだれかの手に渡ったのか………。
それが突然、時空を超えて、フランスの地方都市ブザンソンから見つかった…というのですから、大騒ぎになるのは当然です。「ブザンソンで『夷酋列像』発見」の記事を報じた道新パリ特派員の浜地隼男さんは、本記に添えたサイド記事で「日本のアイヌ絵や北方史の研究者が色めき立っている」と書きました(1984年10月26日付)。その興奮ぶりが紙面から伝わってきます。裏を返せば、それほど驚きに満ちた報道だったのです。
では、次回から「夷酋列像」の細部を一緒に見ていきましょう。