ダイバーシティー(多様性)の大切さを考えたい。そのきっかけとして、アイヌ文化の奥深さから話を説き起こしました。多様性とは「違いを認め合う」ことは言うまでもありません。お互いを尊重し、相手を思いやり、理解を深める。いまを生きるわたしたちにとって、多様性とはいわば一人一人の「個性」と言って間違いないでしょう。
前回と前々回、読書の秋にぜひ手にしてもらいたい「2冊」として、船戸与一の「蝦夷地別件」と武田泰淳の「森と湖のまつり」を取り上げました。いずれも、道東の豊かな自然を舞台に、アイヌの躍動的な姿が新鮮な感動と驚きをもたらす大作です。北海道に暮らすわたしたちだからこそ分かち合える共感、共鳴といってもいいでしょう。
アイヌへの果てなき夢を追って、これからみなさんとフランス散歩に出ようと思います。
一連のブログの中で、わたしは自分自身の過去の経歴として、北海道新聞の記者時代、約5年間パリで暮らす機会があったことに触れました。1年間はジャーナリズムの研修生として、残る4年間は特派員として過ごしました。いずれも家族とともに生活したため、パリは「第2の故郷」といった身近な存在です。
滞在中、政治、経済を含め激動の20世紀末を経験しました。ダイアナ妃の事故死もありましたし、サッカーのワールドカップフランス大会も。そこで出会った数々の人たちとの交流、育んだ友情に、言葉では尽くせぬ感謝の気持ちが溢れます。思い起こせば、良いことも、悪いこともありました。仕事の面で言いますと、達成できたもの、達成できなかったもの……。その中で、宿題として残った「あること」が、いまもなお、忘れられません。
「宿題」とは、アイヌに関するミステリー…です。それは北海道にとっても「果たせぬ夢」として残っている。こう言っても過言ではないかもしれません。
アイヌとフランス。みなさん、このふたつを結びつけるストーリーを何か思い浮かびますか。一見、唐突に思えるこんな話を進めていこうと思います。それは、アイヌの文化がいかに豊かで多様かを考える材料にしたいとの強い思いからです。
話は1984年(昭和59年)に遡ります。いまから36年前の10月26日。この日の北海道新聞を手にした読者の多くがこの記事に目を留めたことでしょう。わたしもその一人でした。一体、何が? 朝刊1面を埋め尽くしたのは、極めて異色な記事だったのです。
横見出しは「蠣崎波響の幻の名作 夷酋列像フランスで11点発見」
縦見出しには「専門家の鑑定結果 真筆間違いない」とあります。
名作の絵画とその発見に貢献した人物の写真とともに、「蠣崎波響」「夷酋列像」の解説を加えた、堂々のトップ記事。いわゆる道新の「特ダネ」でした。
政治や経済をテーマとする1面トップは日常的ですが、こうした文化ネタでトップを張るのはあまりないことです。裏を返せば、それほど価値の高い話題であったことが分かると思います。
記事のクレジットは【ブザンソン(フランス東部)浜地隼男特派員】とあります。浜地さんはすでに鬼籍に入られていますが、わたしの5代前の道新のパリ特派員だった方です。
おそらく、蠣崎波響や夷酋列像について知識のない方も多いと思います。まずは浜地さんの書いた記事の前文を読むと、概要が分かりますので、その記事をそのまま紹介します。
<江戸時代、“松前応挙”とうたわれた松前藩家老で画家の蠣崎波響(かきざき・はきょう)の「夷酋列像(いしゅうれつぞう)の11点がスイス国境に近いフランス・ブザンソン市立博物館に収蔵されていた。夷酋列像は、アイヌの長老ら12人を描き、時の光格天皇にも上覧された波響の代表作だが、忽然と姿を消したため幻の名作と称されてきた。これらの作品が倉庫に眠っているのに気づいた同博物館が、専門家に鑑定を依頼したところ、「波響の真筆と考えて間違いない」との鑑定結果が出た。波響の代表作がなぜ、フランス東部の地方都市に眠っていたのか。誰が日本から持ち出して、この博物館に収蔵したのか。12点のうち1点が欠落しているのはなぜか…。美術関係者の間で大きな話題を巻き起こしている>
どうでしょう。みなさん、話の筋はつかめましたか? ことの詳細は次回から。