ダイバーシティー(diversity)。日本語で「多様性」と訳します。最近、いろいろな場面でよく耳にしますね。この言葉の対になるのは……「単一(均一)」でしょうか。これからみなさんと、多様性の素晴らしさについて考えてみたいと思います。最近の日本の政治情勢などをみて、ふと、頭をよぎったテーマです。
新しい首相が誕生し、少しずつ時間がたつにつれ、総裁選挙のことはもはや過去の話になりつつあります。あらためて記憶をたどり、菅、石破、岸田の3氏が競った今回の総裁選を振り返りますと、首相の座に就いた菅義偉氏には、心に響く言葉が乏しかったと思います。首相に就任してからも…。みなさんはどう感じていますか。
敗者について語るのはいまさら…ですが、総裁選の演説や訴えを聞く中で、わたしの心を最も揺さぶった人は、石破茂氏でした。結果的に石破氏は最下位に沈み、これで首相の芽はなくなったとの見方があります。何より、自身が敗戦の弁で「反省」を口にしていますので、彼の今後についてはあえて触れません。
ただ、派閥の論理や勝ち馬に乗る雪崩現象など、選挙に絡むすべてを白紙に戻して、3氏の演説を客観的に聞いたらどうでしょう。わたしは、石破氏の演説に説得力を感じました。その内容と弁論の迫力は菅、岸田両氏を圧倒していたからです。(わたしは石破氏の支持者でもなく、利害関係は何もありません)
なぜなのか。その理由を考えてみました。それは、石破氏の政治家としての「国家観」が明確に示されていたから…だと思います。
石破氏は、立候補の演説で、田中角栄元首相が生前に語った「あの戦争に行ったやつが中心にいる間はこの国は大丈夫だ。そうでなくなった時が怖い」との言葉を引用し、「(さきの戦争で)国民には正確なデータが知らされなかった。メディアは戦争を煽り、権力と癒着した」と語り継ぎました。マスコミに身を置いてきた一人として、どきっとさせられた瞬間でした。
そのうえで、石破氏はこう力説します。「少数者が尊重されなければ民主主義は機能しない」「一部の人だけに利益が及んでいないか」「国民を信じない政治家は信用されない」――。
実はこの指摘が、7年8カ月に及んだ安倍晋三氏の長期政権を批判したものであることは明らかです。その継承を公約に掲げた菅氏への支持が拡大し、結局は出来レースと化した選挙ですが、その安倍政治にあえて異を唱えた石破氏の「勇気」には凄みを感じました。同時に、いまこの時代、政治とは何かを熱っぽく語る政治家がいかに少なくなったかを、逆説的に考えさせられる場面でもありました。
実は、この石破氏の演説の中に、今回からみなさんと一緒に考えてみたいと思う大事なキーワードが含まれていたのです。着目したのは、石破氏の演説の冒頭で触れた言葉。
「少数者が尊重されなければ民主主義は機能しない」
極めて当たり前のこの言葉がなぜ心に響いたのでしょうか。それは、わたしたちを取り巻く環境が「少数者を尊重する社会」とはほど遠い現状にあるからかもしれません。
今回の総裁選でも派閥の領袖として「暗躍」し、新内閣の要に就いたのが麻生太郎副総理・財務相です。過去、何度も、懲りずに、問題発言を繰り返してきた人物でもあります。この人がどんな「国家観」を持っているのか、よく知りませんが、「日本は単一民族の国」という凝り固まった発言から想像するに、何とも黴臭い政治家像が浮かび上がってきます。
今年1月には、こんな発言がありました。ラグビー・ワールドカップでの日本の活躍を称えた麻生氏は「世界に堂々と存在感を発揮した」と力説し、こう言い放ったのです。「2000年の長きにわたり、一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族で、一つの天皇という王朝が続いているのは日本しかない。いい国なんだな、と。これに勝る証明があったら教えてほしい」
この発言に対し、各方面から批判が上がったのは当然です。石破氏はその時、「アイヌの方々が先住民であることは法律でも明らかだ。我が国の方針とは異なる」と異論を唱えました。日本には古くから、中国大陸や朝鮮半島などから多くの人が渡来し、定着してきました。にもかかわらず、なぜ麻生氏は「単一」にこだわるのでしょう。多様であってはいけないのか――。これからこんな話を、徒然なるままに、綴っていきたいと思います。