フランス北西部、ノルマンジー地方の小さなまちに生まれ育った聖職者サンピエールが著した一冊の本。題名を「ヨーロッパに永久平和をもたらすための試論」と言います。わたしたちは「戦争放棄」の水脈を遡り、ようやくその源流に辿り着きました。



タイトルを正確にフランス語で記すと
「Projet pour rendre la paix perpétuelle en Europe」


英語に訳すと
「Project to bring the eternal peace in Europe」
(これだとみなさん、理解できますね)


ではなぜ、サンピエールはこの時代に「永久平和」といった仰々しいタイトルの「試論」を構想したのでしょうか。本が発表された1710年という時代を振り返らなければなりません。


サンピエール2
写真1(サンピエールの肖像画は前回と今回掲載したこの2つが現在に伝わります)


みなさん、18世紀初頭のヨーロッパの状況をイメージできますか。結論からいってしまうと、この時代は20世紀と同様、まさに「戦争の世紀」だったのです。世は絶対王政の絶頂期。スペイン没落後、フランスではルイ14世の長期政権(在位は1643年から1715年。実に72年に及びました)が続き、英国と肩を並べて世界制覇に乗り出します。新興国オランダなどもこれに続きます。各国ともまずは、東インド会社を拠点にインドやアジアで抗争を激化させ、続いて新大陸アメリカにおける勢力争い、さらにアフリカや南米各地でも植民地戦争を繰り広げていきます。


ルイ14世
写真2(絶対王政の象徴とされるルイ14世。在位は何と72年間にも及びました)


いってみれば世界中で領土拡張合戦を繰り広げていたのです。そこにあったのは血生臭い悲惨な戦争でした。サンピエールにこうした戦乱の世を批判する書を書かせた理由は……。みなさんはお分かりですね。


ルイ14世は「太陽王」の異名を取りますが、その太陽が輝き続けることはありませんでした。治世の末期には国民の不満や不信が渦巻き、やがて絶対王政は崩壊へ向かいます。1789年のフランス革命によってルイ16世がギロチン台へと追い込まれたことを考えると、時代状況が具体的に浮かんでくるでしょう。



ベルサイユ宮殿
写真3(世界一ゴージャスなベルサイユ宮殿。その中で最も豪華なのが「鏡の回廊」です)


サンピエールのこの著書は「戦争をなくしたい」という庶民の願望に基づくもの。その素朴な気持ちを代弁し、理論化した。こう考えることが可能です。


著書は3巻で構成され、その研究は現在、日本でも広く行われるようになりました。では、ここには何が記されていたのでしょう。サンピエール研究の第一人者で元龍谷大学教授の本田裕志さんが翻訳した「永久平和論」(京都大学出版会)を手掛かりに要約してみましょう。大学の講義のようになりますが、少しお付き合いください。ここは大事なところです!


この著書の内容は実に画期的でした。「画期的」とは、絶対王政全盛の18世紀初頭において、市民の視点に立ち、「戦争放棄」に踏み込んだ独自の思想を主張したことにほかなりません。しかも、フランスの片田舎といっては失礼になりますが、ノルマンジー地方の人口500人のまちに生まれ育った聖職者が構想した思想であることも忘れてはならないでしょう。つまり、フランスの地方はすでにこの時代、教育が行き届き、新しい考え方が普及しつつある状況を物語っていると言えます。


サンピエールの主張は次の2点に要約されます。ますます大事なポイントです!
①ヨーロッパを構成する国家は紛争解決の手段として武力の行使を放棄し、仲裁による平和処理を旨とする合意に基づいて同盟を締結する。
②この目的を遂行するために、各国代表からなる常設会議を設立し、違反国に対しては軍事・経済制裁の罰則を科す。


お気づきのように、①では明らかに「武力の行使を放棄する」と記されています。武力の放棄の範囲は「紛争解決の手段」と限定しているので、日本国憲法第9条が規定する「戦力不保持」「交戦権の否認」をうたった戦争放棄の理念とは一致しません。しかし、日本の戦争放棄につながる思想の原点が、この文言に示されたのです。

さらに、②で規定した「各国代表から常設なる会議の設立」。これは現在の国連(UN)、あるいは欧州連合(EU)の萌芽ともいえる多国間主義の提案と読み取ることができます。


欧州連合イメージ
写真4(永久平和論には現在の欧州連合の萌芽とも言える提案も含まれていました)  


サンピエールのこの思想こそが世界初! 戦争放棄の原点と言われていることがお分かりになりましたか。あらためて、それは1710年のことだったのです。