フランス革命を機に発出された「人権宣言」こそが、人権の概念の出発点。18世紀後半に人類はこれほど崇高な意識のもと、自由で平等な社会の実現に向けて力強い一歩を踏み出した----。前回、こんな言葉で「人権宣言」を褒め称えました。


しかし、先駆的な理想はいとも簡単に空文化したことを考えると、一体、この宣言は何だったのかと落胆せざるを得ません。みなさんご承知の通り、自由と平等を渇望するフランス革命が人権宣言を生み出す源泉となったわけですが、革命の進展とともに、フランスの政治状況は人権の理想とはほど遠い恐怖政治へと発展し、人民を次々と断頭台へ送り込んでいきます。




コンコルド広場
写真1(パリ中心部にあるコンコルド広場はかつて、断頭台が置かれ、凄惨な処刑の場となりました。国王も王妃も、革命の指導者たちも…)



国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットがパリ・コンコルド広場でギロチンによって斬首されたのはもとより、マラー、ダントン、ロベスピエールといった革命の主導者らも内部抗争の果て、次々と処刑されていったのです。



主権者たる国民の自由・人権を保障する価値と、おびただしい流血を伴う戦争の代償との比較考量という、現代と全く同じ基盤に立って生み出された理念は、革命による混乱とともに霧消し、政治体制は再び流動化、保守化していきます。



世界史を学んだ人ならだれもが知っています。その後のフランスの迷走を。革命後に登場したナポレオンは、戦争放棄などどこ吹く風、自衛のための戦争を容認し、近隣諸国の征服に乗り出します。国民がナショナリズムに陶酔していったのは、愚かさの象徴でしょうか。自由と平等を掲げる民主国家どころか、フランスには再び王制が復古し、ナポレオンによる帝政が敷かれ、民衆に対する圧制が復活します。




ナポレオン
写真2(フランス革命後、混乱する国内情勢を背景に台頭したナポレオン。皇帝まで昇り詰めた人生は壮大なサクセスストーリーです。島流しの刑による最期はみじめでした)




昨年夏、札幌でビクトル・ユゴー原作のミュージカル「レ・ミゼラブル」が上演された際、そのストーリーを辿る解説を試みたことがありましたが、みなさん覚えていますか。このミュージカルの時代背景こそが、フランス革命後にこの国を覆った暗黒の19世紀前半だったのです。




19世紀から20世紀に及ぶ歴史の流れは、フランスに限らず、ヨーロッパ全体に共通する潮流だったといえます。政治混乱の果てに訪れたのは、帝政の崩壊、共産主義の台頭、そして大きな2度の大戦。ファシズムの狂気とポピュリズムの乱舞…。振り返れば、政体の転換と革命、繰り返される戦争により、民主主義の理想は吹き飛び、「人権宣言」は有名無実化していったのです。


虚しさが募りますが、今回のストーリーが目指すのは、日本国憲法の戦争放棄に繋がる水脈を辿ることでしたので、話を軌道に戻しましょう。



前回、1789年のフランス革命によって誕生した「人権宣言」の2年後、つまり1791年に制定されたフランス初の憲法で「戦争放棄」が謳われたところまで辿り着きました。これは、国家レベルとして世界で初めて「戦争を放棄する」と明言した公式文書であり、歴史的な出来事だったことを確認しました。




では、話を進めます。戦争放棄の思想は実は、さらに歴史を遡ることができます。フランス革命から79年前。1710年に時計の針を巻き戻し、みなさんと小旅行に出かけましょう。





モンサンミシェル
写真3(この写真を一度は見たことがあるでしょう。フランス西部に浮かぶ周囲900㍍の小さな島。島全体が修道院になっており、聖地として訪れる人が絶えません)




フランスの地図を思い浮かべてください。フランス人は自分の国の形が六角形をしているので、自国を「レクサゴンヌ(l’hexagone)=フランス語で六角形の意味」と呼んでいます。首都パリから西へ400㌔。その六角形の左上に当たる英仏海峡沿いに、ノルマンジーとブルターニュと呼ばれる二つの地方があります。

 


サンピエール
写真4(ノルマンジー地方の小村サンピエール。村が輩出した聖職者の名を冠しています



世界遺産に登録されているモン・サン・ミシェルという小さな島をご存知ですか。日本の旅

番組や旅行雑誌にもよく登場するので、目にした方も多いでしょう。小旅行の目的地は、この島のすぐ近くにあるサンピエールという村。なぜでしょう。それは、ここに生まれ育ったある聖職者の足跡を追って、「戦争放棄」の原点を探るため…です。




Allons y!(アロン・ズィ=さあ、でかけましょう!)