5月11日の北海道新聞朝刊を手にしたわたしは、第1社会面の死亡記事を何度も読み返しました。「アイヌ財団理事長、元北大学長 中村睦男さん死去」。こんな見出しで、中村さんが81歳で死去したことを伝えていたからです。記事によると「4月17日に心不全のため、札幌市内の病院で死去したことが分った」と書かれていました。



亡くなってから2週間、死亡の報はマスコミに知られなかったのです。北大の元学長の訃報がこんなに長く表に出なかったとは。それもさることながら、わたしが驚いたのは、中村さん宛てに4月27日、私信のメールを送ったばかりだったからです。


中村先生
写真1(最後のツーショット。左がわたしです=札幌日仏協会総会で2月21日に撮影)


なぜメールを送ったのか。それは、4月26日の道新「本欄」に、中村さんが編者を務める「平和憲法とともに」と題した単行本が出版され、その書評が掲載になったからです。この本は、憲法学者として知られる北大の深瀬忠一さんを追悼する本で、深瀬さんに師事した3人の憲法学者が編纂しました。

わたしはメールで、新型コロナウイルスの感染拡大の折、お変わりなく過ごしているか、身を案じたうえで、道新書評欄に掲載された追悼の本に触れ、その労をねぎらい、「コロナが落ち着いたら再会しましょう」と綴りました。



平和憲法とともに
写真2(刊行された「平和憲法とともに」は深瀬忠一さんを追悼する書です)

中村さんは非常に几帳面な方で、メールを出すと必ず返信を頂きました。しかし、このメールに対しては何の応答もありませんでした。それもそのはず。17日に亡くなっていたのですから。わたしのメールが開封されることはなかったのです。

中村さんは憲法学者であるとともに、アイヌ民族の権利回復に尽力し、北大退職後の2009年からは公益財団法人アイヌ文化振興・研究振興機構の理事長を務めました。その多大な貢献は当然ですが、この死亡記事には残念ながら、北海道とフランスの交流を推進した功績については全く言及がありませんでした。

中村さんは2007年から今年3月まで、札幌日仏協会の会長を歴任され、フランス政府からも勲章を授与されています。わたしが知己を得たのは、憲法やアイヌ問題ではなく、この日仏協会の活動を通じてのことだったのです。

これまで何度かお話ししたように、わたしは北海道新聞のパリ特派員を務めたことがあり、それをきっかけに、細々とではありますが、道内の「フランス人脈」のようなものを築いてきました。現在、札幌日仏協会の常任理事に名を連ねていますが、これも中村さんの推薦があったからです。理事会の席では常に隣り合わせで座っておりました。

北大の出身ではないものの、「あなたは教え子のようだ」と可愛がってくれ、転勤で札幌を離れることが多かったにもかかわらず、手紙やメールでよく励ましてくださいました。その意味で、わたしにとって「恩師」のような存在でした。

最後にお会いしたのは今年2月21日。札幌日仏協会の総会・懇親会の席でした。総会では長年務めてきた会長を退く旨を告げ、その理由として「80歳を超え、健康面でみなさんにご迷惑をかけるわけにはいきません」と語ったのが印象に残ります。その時、もしかすると体調に支障をきたしていたのでは……。総会後の懇親会では、満面の笑みをふりまき、シャンパンを手に会員のみなさんに謝意を述べていました。

中村さんはなぜ札幌日仏協会の会長を務められたのか。フランスとはどんなかかわりがあったのでしょう。それは、経歴を見れば明らかです。北大法学部を卒業後、同大で助手を務めていた1965年から2年間、フランス政府の給費留学生として、フランス中部の地方都市ポワチエにあるポワチエ大学に留学しました。


ポワチエ
写真3(中世から大学都市として知られるフランス中部のポワチエ)

ポワチエの戦い
写真4(イスラム教徒とキリスト教徒の激戦の舞台として歴史に名を刻みます)

フランス国内ではソルボンヌ大学と並んで、中世から法学を志す者の最高学府として知られます。同時に、このまちはイスラム軍とキリスト教徒の激戦の舞台となった「ポワチエの戦い」(732年)で歴史に名を刻んでいます。

日本の著名な法学者には、伝統的にフランス法を学んだ人が多くいます。日本の平和憲法はこうした学者たちによって脈々と守り継がれてきたといっても過言ではないでしょう。なぜフランスなのか。それは、この国が「人権の母国」と呼ばれるように、「人権の概念」を世界で初めて、世に生んだ国だからです。日本国憲法9条が定める「戦争放棄」の水脈を辿っていくと、実はここ、フランスに行き着くのです。こんなお話をこれから進めていきたいと思っています。