第二次世界大戦中、欧州各地から“狩り集められた”ユダヤ人は、ポーランドに連行されます。終着駅はクラクフ郊外にあるアウシュビッツでした。収容所の跡地は歴史の貴重な現場として修復・整備され、ほぼ当時の形で保存されています。
アウシュビッツは広大です。オシフィエンチムの名で知られる第1収容所、ビルケナウと呼ばれる第2収容所、さらにモノヴィッツと言われる第3収容所の集合体と考えてください。現在、わたしたちが一般的に訪れるのは、収容所跡地として整備されているオシフィエンチムとビルケナウです。
前回、冒頭で紹介したアウシュビッツの象徴とも言われる写真を覚えていますか? 欧州各地から鉄路、貨物列車に載せられたユダヤ人が到着した、いわばアウシュビッツの入口にあたる場所です。引き込み線がそのまま残されています。数百万人ものユダヤ人が不当に身柄を拘束され、100万人を超す人々がここアウシュビッツで命を奪われました。
世界は1930年代、再び戦争へと突入しました。ドイツではヒトラー率いるドイツ労働者党(ナチス)が権力を掌握し、ドイツ人の優勢思想を掲げてファシズム(全体主義)へと突き進みます。ナチスドイツは反ユダヤ主義を国是とし、ユダヤ人の壊滅を最終目標に掲げました。「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決」とは一体何を指すのでしょう。これを語るには、わたしの知識は圧倒的に欠如しています。しかし、難解ながらも、常に歴史の暗部と向き合い、学び続けなければならない大事なテーマだと考えます。
いま、アウシュビッツに到着したわたしたちは、オシフィエンチムの収容所入口にあるゲートをくぐりました。ここにはドイツ語で「あの有名な看板」が掲げられています。
「ARBEIT MACHT FREI」
ARBEIT(アルバイト)は日本語にもなっています。「働く」の意味ですね。
ここには「働けば自由になる」と書かれています。しかし、これは欺瞞のスローガンでした。ナチスドイツはユダヤ人に労働を強い、最終的に絶滅に追い込む。つまり労働に名を借りた大規模な虐殺行為をアウシュビッツで実行したのです。
ここにはユダヤ人が実際に生活していた宿舎が当時のまま残されています。敷地の周囲には、高圧電流の流れる有刺鉄線が張り巡らされ、等間隔に設置された監視塔には機関銃と自動小銃を装備した護衛兵が24時間体制で監視に当たっていました。脱走は不可能です。強制労働に耐えられない人々は、次々とガス室や絞首刑台に送り込まれて死刑に処せられます。「阿鼻叫喚」。これに代わる言葉をわたしは見つけることができません。
日本の切支丹に対するあまりに過酷で大量な虐殺が行われたのは、徳川3代将軍家光の時代だったと以前お話ししました。その殺害手段と方法は何と残虐だったことでしょう。わたしはその時、人間とはここまで残虐になれる生き物なのかと書きました。そして、切支丹の弾圧同様、ホロコースト(大量虐殺)の代名詞ともいわれるアウシュビッツをこの目で確認しようと、みなさんを今回の旅に誘ったのです。
アウシュビッツの日常は「死」と直結していました。
さきほど指摘したように、労働力として適さないとみなされるや分別されてガス室へ。飢餓によって倒れても。恐怖のための見せしめとしても…。アウシュビッツに生きる望みは存在しませんでした。
現在、収容所を訪れる人は、ナチスドイツがここで行ったユダヤ絶滅の現場に立ち尽くし、言葉を失うでしょう。広島の原爆記念館を訪れた時もそうでした。悲惨な現場が時間を超えて凍結保存されている。その衝撃は言葉になりません。足が震え、恐怖におののき、溢れる涙が止まりませんでした。
敗戦の色が濃くなったナチスドイツは、虐殺の限りを尽くし、その証拠となる施設を破壊して敗走していきます。ソ連軍よって解放されたアウシュビッツは、その後「強制絶滅収容所」と名付けられました。この名の通り、アウシュビッツは戦争の狂気を体現した施設なのです。
ナチス同様、軍国主義に突き進んだ日本も決して例外ではありません。戦争という魔物と狂気に取り憑かれ、中国やアジア諸国を蹂躙し、言葉では言い尽くせぬ残虐な行為を平然と繰り広げていったのですから。これこそが戦争の本質なのです。