みなさんは一生に一度は訪ねてみたい世界の都市・場所はありますか?


パリ、ニューヨーク、ロンドン、ローマ…。新型コロナウイルスの感染拡大で、どの都市も混乱が続いており、いま訪れるのは難しいですが、どのまちも、何度でも、訪れてみたいですね。歴史を学んで訪れると、楽しみは何倍にも膨らみます。

わたしは個人的に、ここだけは訪れたい、いや訪れなければならないと思っている場所がいくつかあります。そのひとつがアウシュビッツ強制収容所です。



アウシュビッツ
写真1(アウシュビッツに連行されたユダヤ人は2度と生きて帰れませんでした)


ローマ教皇の訪日をきっかけに、今回の旅が始まりました。フランシスコ教皇が名を求めた中世の聖人フランチェスコの生誕地アッシジ(イタリア)を訪れ、続いて、同じくフランチェスコの洗礼名を得てローマ教皇のもとに派遣された仙台藩士支倉常長の旅を振り返りました。さらに九州のキリシタン大名がローマに派遣した4人の少年の話も辿ってきました。

戦国時代から江戸時代へと世の中が変わる中で、異教徒への弾圧は強化されていきます。その時代に生を授かった宿命とはいえ、拷問・迫害・虐殺という試練に立たされた切支丹の姿をひもとくと、わたしの脳裏には、大量虐殺を意味する「ホロコースト」のイメージが沸き上がってきたのです。

そしていま、時空を超えて、わたしたちはポーランド南部の古都クラクフにいます。
なぜクラクフなのでしょうか。それはすでにお話しした通り、第2次世界大戦中、ヒトラー率いるナチスドイツ(ドイツ労働者党)が、ユダヤ人に対して組織的に行った大量虐殺の現場であるアウシュビッツ収容所に近接し、アウシュビッツを訪ねる時には必ずや立ち寄るまちだから。そしてユダヤ人とカトリック教徒が長く共存してきたまち…だからです。

アウシュビッツに向かうわたしたちは、その前にクラクフの南側に広がるユダヤ地区に足を運びました。前回の最後の部分でお話しした通り、ここは米国の巨匠スティーブン・スピルバーグ監督の代表作「シンドラーのリスト」(1994年公開)が撮影されたまちでもあり、ここで大掛かりなロケが行われました。



シンドラーのリスト
写真2(「シンドラーのリスト」のポスター。緊迫のシーンが脳裏に蘇ります)


みなさん、そのストーリーを覚えていますか?


ポーランドは1939年、ナチスドイツによって占領され、古都クラクフも支配下に置かれます。主人公のドイツ人実業家オスカー・シンドラーは、ここクラクフに軍需工場を開業しますが、ナチスドイツが推進する過酷なユダヤ人殺戮に反旗を翻し、工場で働く1100人ものユダヤ人の強制収容所送りを阻止するのです。ユダヤ人を救った「実話」に基づくもので、ホロコーストをテーマとする名画としてシネマ史上に輝きます。

みなさん、日本にも「シンドラー」と呼ばれる人がいるのをご存知ですか?
「日本のシンドラー」は昭和の外交官杉原千畝(すぎはら・ちうね)です。杉原は第2次世界大戦中、リトアニアの臨時首都カナウス(現在の首都はビリニュス)の日本領事館に勤務していました。ドイツの激しい迫害で、隣接するポーランドなどから逃れてきたユダヤ人に心を動かされ、日本外務省の訓令に反して大量のビザ(通行査証)を発給して避難民を救ったのです。「命のビザ」は6000人にも及んだとされます。
こんなに気骨のある日本の外交官がいたことを、ぜひ記憶にとどめたいと思います。


杉原千畝
写真3(杉原千畝は岐阜県の出身。故郷の八百津町には記念館が開設されています)

さて、アウシュビッツに向かう前にクラクフ市街の南側に位置するユダヤ人地区に立ち寄りました。「シンドラーのリスト」のロケが行われた場所として知られるこの場所は「ガジミエシュ地区」と呼ばれています。

ここは、中世から迫害を受けてきたユダヤ人を救済する目的でつくられた居住区であり、第2次世界大戦でナチスドイツが歯止めなき大量虐殺へと狂いだすまで、ポーランド人とユダヤ人が共存共栄を遂げてきたまちだったのです。

現在も多くのユダヤ人が生活し、礼拝の場であるシナゴーグやユダヤ博物館も点在します。いまやクラクフきってのおしゃれな地区に変貌を遂げ、カフェやレストラン、個性的なショップが立ち並びます。わたしが立ち寄ったユダヤ料理店には、スピルバーグ監督の色紙とロケ風景のパネル写真が飾られていました!



クラクフ・ユダヤ地区
写真4(時はめぐり、いまや流行の先端といわれるガジミエシュ地区。明るく開放的です)




さあ、それでは、クラクフからバスで西へ約1時間。アウシュビッツ強制収容所跡に向かいましょう。ここを訪れるのは、広島や長崎同様、現代を生きる者の責務である。わたしはこんな決意と覚悟で、クラクフ発アウシュビッツ行のバスに乗り込んだのです。