長崎からローマ教皇のもとを訪れた400年前の九州の少年たちの話を書きつづる中で、わたしの頭の中にはひとつの言葉とイメージが大きな像を結びました。



  「ホロコースト」



日本語に訳すと「大量虐殺」。
より具体的に言うと、第2次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人に対して組織的に行った大量虐殺を指します。

江戸時代初期、徳川幕府はキリスト教の禁教令を出します。1612年のことでした。弾圧政策を完成させたのは3代将軍家光の時代です。切支丹を次々と虐殺していく光景は「人間はそこまで残酷になれるのか」と思わせるほどの様相を呈していきます。


沈黙
写真1(遠藤周作の「沈黙」を米国のマーチン・スコセッシ監督が映画化し、2016年「サイレンス」と題して世界各国で公開されました)


4人の少年たちのローマ教皇への旅を著書「クアトロ・ラガッツィ」で描き切った若桑みどりさんは、切支丹に対する弾圧をこんな言葉で表現しています。
「集団的な憎しみが切支丹に集中していたのであろうか。それは、ナチのユダヤ人虐殺の場合と全く同じである。思うに徳川はこの憎しみの上に鎖国体制を敷いたのである。世にいう大平の世は、一方においてこのような憎しみと流血を土台に確立されたのだ」

4人の少年たちが拷問や国外追放など過酷な運命をたどった当時の長崎。最も苛烈な禁制が施されたのは、踏み絵を考案したとされる水野守信と竹中采女正(うねめのかみ)重義が長崎奉行を務めた寛永3年~9年(1628~34年)だったと言われています。切支丹の殺害は、その手段と方法において「人界の地獄」と称されるほど「無類の残虐さ」で執行されていくのです。



踏み絵
写真2(切支丹を発見する道具として「踏み絵」が考案されました)



日本の中央集権国家の基礎となる幕藩体制は、キリスト教という宗教集団に対するホロコースト的な撲滅政策とともに開始されました。恐怖という最も効果的な方法で民衆の心を凍り付かせ、「邪教」という共通の敵を作り出すことによって、反逆者をすべて破壊し尽くし、虐殺を合法化する。しかも、そこには人権意識の片鱗すらも見受けられなかったー。わたしは江戸時代をこう定義しています。

仙台藩主伊達政宗がローマ教皇に派遣した支倉常長による慶長遣欧使節も、九州のキリシタン大名が4人の少年を同じく教皇のもとに派遣した天正遣欧使節も、そして国内で急速に拡大しつつあった切支丹たちも、禁教政策が激化する中で、まさにホロコーストといえる恐怖の洗礼を受けていた!実はナチス・ドイツから遡ること400年前の日本で、それは実際に起きていたのです。

では、ホロコーストとは一体何でしょうか。わたしたちはそれを考えるために、次の旅に出なければなりません。ローマ教皇の訪日をきっかけに、長い物語が続いてきましたが、これから訪れる場所は、その教皇にも関連のある都市です。

わたしたちが向かう先は? 旧東欧のポーランドです。みなさんはポーランドというと何を思い浮かべますか。音楽の好きな人はピアノの詩人・ショパンの生誕地として記憶にとどめているでしょう。物理学者キュリー夫人の祖国でもあります。東西冷戦時代、旧ソ連を中心とする東欧諸国が結成した軍事同盟・ワルシャワ条約機構を思い起こす人は、この国の首都がワルシャワであることをご存知だからでしょう。



ショパン生家
写真3(ワルシャワ郊外にはピアノの詩人・ショパンの生家があります)

ドイツと国境を接する地政学的な位置こそが、この国が背負う「運命」を決定づけたことは、のちほどお話することになります。では地図を見てみましょう。ポーランドには首都ワルシャワと古都クラクフの二つの大きな都市があります。日本でいえば東京と京都のような存在で、それぞれ中東部と南部に位置しています。両者の距離は約300㌔。ワルシャワから特急列車に乗って南下すると、約3時間でクラクフ中央駅に到着します。


ポーランド地図
写真4(首都ワルシャワは中東部、クラクフは南部に位置しています)

クラクフは17世紀に首都がワルシャワに移るまで、ポーランド王国の都として繁栄しました。人口約100万人。ローマ教皇として1981年2月に初来日したヨハネ・パウロ2世は、ここクラクフの出身です。教皇に就任する直前は、クラクフの司教を務めていました。


クラクフ
写真5(クラクフはポーランドの古都。美しい街並みは世界遺産に登録されています)

なぜわたしたちはクラクフを訪ねるのでしょうか。それは、第2次世界大戦の悪夢でもあるホロコーストの舞台・アウシュビッツ強制収容所に近接したまちであるとともに、何よりもユダヤ人とキリスト教徒の共存共栄を実現してきた、「寛容な都」だったから…です。