ローマ法王庁から発信された小さなニュースに目が留まったのは、2007年のことでした。記事はローマ発の共同電。内容はおおむね次の通りでした。
「江戸時代初期に日本各地で殉教した188人のカトリック信者に対し、ローマ法王庁が『聖人』に準ずる『福者(ふくしゃ)』の称号を授けることを決定した」
世界に門戸を閉ざし、伝来したばかりのキリスト教の信者を根絶した400年前の日本。188人はその過酷な時代に遭遇し、信仰に命を捧げた人たちでした。では、なぜこんな措置が取られたのでしょうか。

写真1(福者を祝う式典=列福式=に向けて描かれたポスターです)
昨年11月下旬、ローマ教皇フランシスコが訪日しました。教皇の日本訪問は1981年のヨハネ・パウロ2世以来、38年ぶり2度目のことでした。実は、ヨハネ・パウロ2世が訪日した際、日本カトリック司教協議会が、1603年~39年にかけて、江戸幕府の禁教政策によって殉教した188人を「福者」に認定するよう、教皇に「直訴」したことが発端となったのです。認定に至るまで、30年もの歳月がかかりましたが、慎重かつ膨大な審査を経て、教皇の約束は果たされたのです。
福者の名簿を追っていたわたしは、一人の名前に目が留まりました。
「中浦ジュリアン」
ジュリアンは九州のキリシタン大名がローマ教皇のもとに派遣した天正遣欧少年使節のメンバーの一人です。4人で構成された少年使節については前回、8年間に及ぶ長い旅路を時代背景とともに振り返りました。
少年たちはルネサンス文化全盛の欧州・イタリアを隈なく巡り、長崎出発から8年後の1590年に帰国します。日本は戦国時代からやがて江戸時代を迎え、キリスト教徒の迫害は激しさを増していきます。メンバーの一人だった中浦ジュリアンは帰国後、どんな人生を送り、殉教者としての道を歩んだのでしょうか。
ジュリアンは帰国後、「司祭」に叙階され、九州各地で布教を続けます。江戸幕府によるキリシタン弾圧が激化する中、キリシタン追放令が発令されても、布教を諦めることはありませんでした。殉教覚悟で地下に潜伏し、九州各地を回って迫害に苦しむキリシタンを訪ね歩いて祈り続けたのです。
地下活動は20年に及びますが、1632年、遂に捕縛されて長崎に連行され、最も残虐な「穴吊るし」の刑に処せられました。だれがこんな拷問を考案したのでしょう。頭を下にして穴に吊るすと、全身の血が頭にたまります。こめかみに小さな穴を開け、そこから数滴ずつ血液を穴に垂らすことで、ゆっくりと死に導いていく恐ろしい刑です。ジュリアンが絶命したのは穴吊るしから4日目。齢65歳。苦難と栄光に満ちた人生をこんな形で閉じるとは。
「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアンです」。
かすかな声で発したとされる最期の言葉には、日本人として初めてローマ教皇に謁見したプライドが込められていたのでしょう。
かすかな声で発したとされる最期の言葉には、日本人として初めてローマ教皇に謁見したプライドが込められていたのでしょう。
禁教を完成させたのは、徳川3代将軍家光でした。男色家として知られる家光は、国内の信者と宣教師を完膚なきまで抹殺へと導いた人物でもあります。キリシタンを次々と殺害していく光景をみると「人間はそこまで残酷になれるのか」と思わざるを得ません。
少年使節のすべてを書き切った若桑みどりさんの大著「クアトロ・ラガッツィ」は最終章に「ジュリアンの殉教」と題した一項を立て、残虐な結末を詳述しています。若桑さんは、徳川政権が旧態依然たる封建的体制を固守する道を選んだ17世紀初頭のわが国を冷徹に見詰めます。次の一文を読んで、皆さんもお考えください。
「スペイン・ポルトガルには日本を征服する意志がなかったにもかかわらず、国民の愛国心に訴えて仮想の外敵を作り上げ、国民の心をひとつに絞った。そのとき、キリシタンは二重の意味で血の制裁を受けなければならなかった。ひとつにはスペイン・ポルトガル帝国のスパイであるという理由によって、もうひとつは神道の敵、すなわち国体の敵であるという理由によってである。17世紀の日本におけるキリシタンの大量虐殺はこうした世界の情勢が日本の国策とからみあって起こったのである」
クアトロ・ラガッツィのうち、ジュリアン以外の残る3人の運命も苛烈なものでした。