日本にヨーロッパとの出会いを初めてもたらした国。それは紛れもなくポルトガルです。
1543年に3人のポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を、6年後の1549年にはポルトガル王が派遣したフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教を。日本の歴史を変えた国…それがポルトガルなのです!
タバコ、カステラ、カルタ…。多くのポルトガル語がいまなお日本人の生活に溶け込んでいるのがその証拠でしょう。現在は欧州西端の小国に甘んじていますが、16世紀、世界に先駆けて大航海時代を迎え、世界制覇に乗り出しました。現在、南米ブラジルで使われる公用語がポルトガル語なのは、500年前のこの時代に遡ることは皆さん、お分かりですね。
前回、九州のキリシタン大名がローマ教皇に派遣した4人の少年使節が喜望峰を経て、ポルトガルの首都リスボンに一歩を標したと書きました。世界中の金銀が集積する「黄金色の街」。テージョ川の大河口に開けた商都リスボンは少年たちの眼にどう映ったでしょうか。
リスボンから東へ200㌔。少年たちがローマへの行き帰りにそれぞれ3日間、滞在した古都エヴォラを訪れたことがあります。スペイン国境に近接し、迷路のように入り組んだまち並みは、まさに中世の城塞都市です。
写真3(少年たちのローマ往復の旅程です。リスボンが旅の拠点だったことが分ります)
まちの中心部にはカトリック大聖堂が鎮座しています。伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲルがパイプオルガンの見事な演奏を披露し、喝采を浴びた場所として記録に残ります。
いまも忘れられない言葉があります。エヴォラの市立図書館で取材した女性館長の話です。
「エヴォラの小学生は歴史の授業で、400年以上も昔、遠いニッポンからこの地にやって来た少年たちのことを必ず学びます。もちろん、帰国後、彼らが辿った悲しい運命についても。少年たちへの尊敬の念はいまも息づいているのです」
日本人が忘れかけている少年たちの記憶と運命が、たった6日間滞在しただけのポルトガルの古都で、いまなお語り継がれている。胸が熱くなりました。
少年たちの8年に及ぶ壮大な旅をどう表現したらいいのでしょう。前回、少年使節の足跡をすべて書き尽くした、若桑みどりさんの著書「クアトロ・ラガッツィ」に触れました。そのプロローグに耳を傾けることがひとつの答えになる。こう確信して、その一部を引用します。
少年たちが派遣された1582年~90年とはどんな時代だったのでしょう。
「日本では信長がその権力の絶頂で明智光秀に討たれ、秀吉が天下をとって全国統治をなしとげようとしていたころに、九州のキリシタン大名3名がヨーロッパに派遣した4人の少年は正式使節として遠く海をわたっていた」(*NHKの大河「麒麟がくる」の時代です)
4人はだれに会ったのでしょう。
「彼らはポルトガルを経てスペインにわたり、その領土に『太陽は沈まない』と言われた国王フェリペに親しく謁見した。かれらはそこからイタリアにわたり、ルネサンスの最後の栄光をまだ輝かせていたフィレンツェの大公フランチェスコ・デ・メディチの熱烈な接待を受け、芸術史上の大パトロン、ファルネーゼ枢機卿に迎えられて永遠の都ローマに入り、カトリック世界の帝王であるグレゴリウス13世と全枢機卿によって公式に応接され、つぎの教皇であり大都市建設者であったシクストゥス5世の即位式で先導を務めたのである」

写真4(少年たちが謁見したグレゴリウス13世。彼らがローマ滞在中に教皇は死去、新教皇シクストゥス5世が即位し、4人が即位の先導役を務めたのです!)
少年たちは何を見たのでしょう。
「彼らは、16世紀の世界地図を跨ぎ、東西の歴史をゆり動かしたすべての土地をその足で踏み、すべての人間をその目で見、その声を聞いたのである! そのとき日本人がどれほど世界の人びととともにあったかということを彼らの物語は私たちに教えてくれる。そして、その後、日本が世界からどれほど隔てられてしまったかも」
九州の戦国大名が派遣した4人の少年たちは、帰国時には21歳から22歳になっていました。「ラガツィ(少年)」は、高い教養と文化を身に付け、多言語を操る「シニョーリ(紳士)」になったと語り継がれています。
しかし、日本は戦国時代から、統一的な国家権力のもとに集約され、他の文明や宗教を排除する鎖国へと突入します。個人の尊厳と思想の自由、信条の自由を確立していく西欧社会からは決定的な遅れを取っていくのです。「ノー天気な引き籠りの時代」―。265年に及ぶ徳川独裁の江戸時代を、こう定義する視点を忘れてはならない。私は強く思うのです。