唐突ですが、みなさん長崎には行ったことがありますか?



空路で入ると、長崎県の空の玄関である「長崎空港」に到着します。

長崎空港は1975年、世界初の海上空港として開業しました。海岸から約2㌔沖に浮かぶ大村市の箕島(みしま)を開発して誕生し、3000㍍の滑走路を備えています。観光、ビジネスともに需要が高く、年間利用客は国内線で約300万人。国内路線としては上位10指に入ります。


空港(島)と陸地は箕島大橋で繋がり、橋を渡ってすぐの国道34号を南に向かうと長崎市、北に行くとハウステンボスがある佐世保市です。今回のストーリーをなぜ、長崎空港で始めたのでしょうか。実は、簑島大橋を渡ってすぐ右手にある公園に置かれた少年像のお話をしたかったからです。「南蛮」(ポルトガル・スペイン仕様)の衣装に身を包んだ4人の少年が凛々しく立っています。注意していれば、車窓からでも必ず確認できるはず!



大村・少年像
写真1(長崎空港近くの公園に設置された天正遣欧使節の4人の少年像)



前回、支倉常長がローマ教皇に謁見した慶長遣欧使節から遡ること30年、九州のキリシタン大名が派遣した4人の少年たちが、ローマ教皇のもとを訪れていた、と書きました。この史実は「天正遣欧少年使節」として知られ、おそらく高校時代に日本史の授業で学んだはずですが…忘却の彼方でしょうか。


少年ドラマ
写真2(4人の物語はいまの時代にも生きています。2019年にはドラマ化されました)


少年たちがローマに向かったのは、戦国時代の1582年(天正10年)。派遣したのは、九州のキリシタン大名である大村藩主大村純忠と、同じく長崎の島原を統治していた有馬晴信、大分を支配していた大友宗麟(そうりん)。前例のない宗教ミッションでした。


フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝道したのは1549年です。ザビエルが入国した九州を中心に信者は急速に広がり、伝道から30年で約30万人規模に達したとされます。ポルトガルやスペイン、イタリアから、宣教師が続々と来日して布教を強化する中、現在の長崎県で先頭に立っていたのがイエズス会所属のイタリア人宣教師ヴァリニャーノ神父でした。


このヴァリニャーノ神父のアイデアで生まれたのが、日本の若い少年を教皇のもとに派遣する「奇策」でした。世界の最果てニッポンでもカトリックの布教は順風満帆に進んでいる。ローマ教皇や欧州諸国にこうアピールし、布教実績を誇示するのが最大の狙いだったといっていいでしょう。


4人はいずれも長崎の島原にあったセミナリオで学んでいた13歳と14歳の男児。いまでいえば中学2、3年生の少年たちでした。


セミナリオとは日本語で神学校と訳されますが、イエズス会の司祭や修道士を育成するための初等教育機関です。神学から哲学、文学、天文学に至るまで、当時の欧州の先端知識が教えられていました。欧州で発明された最新の印刷機も設置されていました!



4人の名前を聞いたことがありますか? 

伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マチルノ、中浦ジュリアン。いずれも洗礼名です。マンショは宗麟の縁者、ミゲルは純忠の甥で晴信の従兄弟、マチルノとジュリアンはともに純忠の家臣の子です。セミナリオで成績トップのエリート集団! ローマ教皇に謁見しても恥ずかしくない「優秀かつ美貌の少年」として選抜されたのです。



支倉同様、少年たちのローマ往復には8年もの歳月を要しました。太平洋を横断した支倉と異なり、少年たちはインド洋から喜望峰を経てポルトガルの首都リスボンに一歩を標します。欧州は幾度もの海難を乗り越え、命懸けで到着した未知なる大地だったのです。


リスボン大航海
写真3(欧州に第1歩を標したリスボンの港。現在は「発見の広場」の石像が聳えます)



旅の詳細を知りたい人にとって必読の書があります。美術史家・若桑みどりさんが著した「クアトロ・ラガッツィ~天正少年使節と世界帝国」(集英社文庫、上下)。少年使節のすべてを書き尽くし、2004年度の大佛次郎賞を受賞した超大作で、これが若桑さんの遺作となりました。クアトロはイタリア語で「4」、ラガッツィは同じく「少年」の意味です。



クアトロ
写真4(若桑さんの遺作となった著書「クアトロ・ラガッツィ」)


支倉常長の「不運の最期」を知っているわたしたちは、想像できます。4人の少年たちが輝かしい栄光に包まれてローマ教皇に迎えられ、帰国後は想像を絶する過酷な運命に晒されたことを。常長同様、なす術もなく沈黙を保ち、力尽きていったことを…。



棄教、拷問、海外追放、病死。日本初の殉教者としての系譜がここに刻まれるのです。