支倉常長がカトリックの洗礼を受け、ローマ教皇に謁見して帰国した日本は、異教徒を徹底排斥する弾圧の嵐が吹き荒れ、殺伐とした景色が広がっていました。
常長は帰国して2年後に52歳で死んだとされます。その死は……。自死だったのか、病死だったのか、それとも処刑されたのか。記録が何も残されていないのは不思議です。常長の墓は宮城県内に3か所存在していますが、その真偽は分かりません。常長の業績が、長く歴史に埋もれ、明治初期までの250年間、葬り去られてきた事実を考える時、「歴史の深い闇」に思いを致さざるを得ません。
写真1(支倉常長の墓とされる仙台市の光明寺。ここに眠っている根拠はありません)
支倉を主人公とした遠藤周作の長編小説「侍」のクライマックスは最終盤に訪れます。息を飲むほど静謐で、張りつめた場面。キリスト者である筆者ならではの知見がにじむ渾身の描写に驚かされます(新潮文庫405㌻)。
写真2(遠藤周作の長編小説「侍」。終盤の展開に息を飲みます)
苦難に満ちた長い旅を共にした腹心の家臣(与蔵)と支倉との会話を引用してみます。
「ここからは……あの方がお供なされます」「ここからは……あの方が、(わたしに代わって)お仕えなされます」。侍(支倉)はたちどまり、ふりかえって大きくうなずき、黒光りするつめたい廊下を彼の旅の終わりに向かって進んでいった…。
「あの方」とはキリストを指すのは明らかです。遠藤は支倉が信仰を守り抜き、処刑されたという想定に立って、小説をエンディングに導いていきます。実はその少し前、支倉と与蔵が二人きりで会話を交わすもうひとつの印象的な場面が用意されています。
支倉は7年に及んだローマへの旅を振り返り、こう語り掛けます。
「なぜ、あの国々ではどの家にもあの男(キリスト)の哀れな像が置かれているのか。わかった気がする。人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを求める願いがあるのだな」
うつむいていた与蔵は、主人(支倉)の言葉を噛みしめるように顔をあげます。与蔵に向かって支倉は「信心しているのか、切支丹を」と小さな声でたずねると、与蔵は「はい」と答えます。「人には申すなよ」と支倉が声を潜め、与蔵はこれにうなずくのです。
「死」が避けて通れないわれわれ人間にとって、信仰とは何なのか。この普遍のテーマと向き合う感動的な描写であり、読み手の心を掴んで放すことはありません。
仙台藩の領地から外にでたことがなかった武士と家臣。それが大海原を命懸けで横断し、当時の日本人が見たこともない欧州の世界に触れた感覚とはいかなるものだったのでしょう。スペイン国王臨席のもと洗礼を受け、壮麗なバチカンで教皇に拝謁した支倉と、その場に居合わせたであろう与蔵。カトリックの信仰とその圧倒的存在に抗うことができないほど衝撃を受けたことは想像に難くありません。
17世紀の日本は、キリスト教禁止令から鎖国体制へと突き進みました。時の権力者だった徳川幕府が異教徒、つまりキリスト教徒を根絶していく手法は、あまりに非人道的であり、その残虐性において現代のジェノサイドにも等しい行為だったといっても過言ではありません。あえて言えば、わが国は異教徒を虐殺して守り抜いた国家だったのです。
人権という概念も意識も存在しなかった時代とはいえ、「異物」を過剰なまでに排除して守ろうとした「国家」とは、一体何だったのか。21世紀を生きるわたしたちにとっても、本質的な問い掛けではないかと思います。
異なる宗教、言語、文化間の対立で、いまなお破壊的な行為が繰り返されています。言論を封じるため、多くの血が流されています。たとえば、パレスチナにおいて、イラン・イラク・アフガニスタンなど中東諸国においても…。独裁国家北朝鮮は言うに及ばず、共産党の一党支配が続く中国もこうした範疇から逃れられないでしょう。信仰や思想の自由があまねく浸透していない現状から目を背けるわけにはいかないのです。
遠藤周作の「侍」を読み進めると、ちょうど中盤あたりで、スペインを行く支倉らの一行を目撃した現地の人がこう語り掛ける場面があります。「ずいぶん前、九州生まれの14、5歳の少年たちが同じような切支丹の使節としてこのエスパーニャに参ったよ」
写真4(九州のキリシタン大名が4人の少年をローマ教皇のもとに派遣しました)
実は日本からは、支倉から遡るところ30年。九州のキリシタン大名が派遣した4人の少年がローマ教皇に謁見するという苦難の旅を遂げていたのです。