まずは、この写真を見てください。薄いグレーのジャケットを纏い、沿道の人たちに笑顔で手を振っているのは。そう。現在の天皇陛下。ここを訪れたのは皇太子の時代でした。




コリア・皇太子

写真1(満面の笑みを振りまく当時の皇太子。いつ、どこを訪れたのでしょう)




2013年6月。訪問場所は、スペイン南部アンダルシア地方の中心都市セビリアに近い人口2万人のまち、コリア・デル・リオです。スペインの小さな町を皇太子が訪れたのには訳がありました。その経緯を説明しましょう。


実は、コリア・デル・リオには、スペイン語で「日本」を意味するハポン(JAPON)という姓を持つ人が約700人も暮らしているのです。そして、彼らは「日本の侍の子孫ではないか」と言われています。スペインのまちに、侍の血筋を引く人たちが暮らしている……。これはいったいどういうことでしょう。


まちの東側にはグアダルキビル川という大きな川が、大西洋に面したカディス湾に向けて流れています。400年前、この川を遡上してコリア・デル・リオに上陸した日本人の集団がいた! というと皆さんお分かりですね。伊達政宗の命を受け、支倉常長が率いた慶長遣欧使節の一行です。


支倉たちは、太平洋と大西洋を横断する長い、長い航海を経て、スペイン上陸の一歩をこの地に標(しる)しました。通商交渉の目的を果たすため、ここからマドリッドに向かいスペイン国王に拝謁、さらにローマへと向かいローマ教皇にも謁見したのです。


目的は果たせず、失意のうちに帰国の途に就きますが、帰路、再びこのまちに滞在した一行の中で、10人ほどが日本に戻らず、コリア・デル・リオにとどまった……というのです。


現在、このまちに暮らすハポン姓の人たちは、この地に残った遣欧使節の子孫で、日本の侍の血が流れている! こう信じられてきました。


ハポン姓の人たちと日本人との関係については、DNA鑑定などによる研究も行われてきましたが、不明な点が多く、解明されていません。ただ、このまちには古くから稲作の技術や習慣が伝わり、ハポン姓の赤ちゃんには日本人特有の蒙古斑が見られる。さらに使節が訪れる以前にはハポン姓は存在しなかったことなどから、日本人の子孫との説が有力です。


市役所の正面玄関には、スペイン国旗、市旗と並んで日の丸が掲げられています。日本とのつながりを大切にする象徴的な光景といっていいでしょう。


市役所
写真2(市役所には常に日の丸が掲げられています)


天皇陛下が皇太子の時代に訪問した2013年は、ちょうど慶長遣欧使節の400周年に当たり、両国を挙げて記念行事が行われました。ハポン姓の人たちが、現地を訪れた皇太子を熱烈に歓迎する姿は大きく報道されたので、覚えている方も多いでしょう。一方、仙台でも同様の交流行事がにぎやかに催されました。



コリア仙台
写真3(2017年にはコリア・デル・リオ市長=左=らが仙台を訪れ、常長の墓がある光明寺で市民と交流しました)


わたしは北海道新聞のパリ特派員を務めていた時代、ハポンさんの取材でこのまちを訪れたことがあります。中心部を歩いていると、何のアポイントメントも取っていないのに、周りにハポンさんが集まってきて、「日本から来たのかい。家に来い」と招かれ、昼食をご馳走してくれたのです! アンダルシアの美しい白壁の街並みの中に、400年前、この地を踏んだ支倉常長を見たような………。侍の姿は夢か、それとも幻か。いまもふと、不思議な感覚に襲われることがあるのです。



コリア市街
写真4(コリア・デル・リオの中心部。アンダルシア地方特有の明るさに満ちています)



前回、「支倉常長の7年に及ぶ長い旅に寄り添ったスペイン人宣教師ルイス・ソテロはどうなったのでしょうか」と書きました。ソテロは鎖国・禁教政策が取られていた日本への入国は認められず、マニラで留め置きとなりました。しかし、日本での布教の情熱はやむことなく、1622年、中国船に潜入して薩摩へ密入国。不運にもすぐ発見されたソテロは、現在の長崎県大村市の牢に閉じ込められ、2年後、火あぶりの刑で殉教した、と記録に残ります。

なぜ弾圧の嵐が吹き荒れる日本へ。ソテロを布教に走らせたものは何だったのでしょうか。支倉と再会することなど叶うはずもありません。信仰を貫き、拷問の末、処刑されるか。それとも転んで(棄教して)生を得るのか。二者択一。これが「時代の宿命」だったのです。



支倉常長の旅から現代のわたしたちは何を学ぶべきなのか。わたしが最初に投げ掛けたこのテーマについては、次回から考えたいと思います。