仙台藩士支倉常長ら一行のスペイン国王、ローマ教皇謁見の旅の足跡は、現在、常長の銅像が建立されている世界各地の場所をみると明らかです。



太平洋を横断して新大陸に最初の一歩を記したメキシコ・アカプルコにはじまり、キューバの首都ハバナ、スペイン南部セビリアに近いコリア・デル・リオ、イタリアの港町チヴィタヴェッキア、フィリピンの首都マニラ…。前回掲載した航路を見比べていただくと、いずれも旅の重要な拠点であることが分ります。



支倉常長ハバナ

写真1(キューバの首都ハバナにある支倉常長の銅像。指さす方角は…日本です)



これらの銅像は、北海道ゆかりの彫刻家佐藤忠良氏が製作した、仙台城二の丸公園にある立体像をもとに造られていると聞きました。


日本からスペイン、イタリアへ。飛行機に乗れば13時間ほどで到達できる現代の世を考えると、400年前の船旅はいかに困難、かつ命懸けだったことでしょう。


常長がスペイン人宣教師ルイス・ソテロ、江戸や堺の豪商ら総勢180人を率いてローマに辿り着いたのは月の浦を出航してから2年1カ月後。無事日本に戻ったのは何と7年後のことでした。気が遠くなるほどの長い、長い旅路だったのです。




航海の顛末については、慶長遣欧使節の研究者として知られる大泉光一さんの著書「支倉常長」(中公新書)に詳しく、興味のある方はぜひお読みください。




結論からいいますと、支倉常長のミッションは大失敗に終わりました。伊達政宗が目論んだスペインとの通商関係の樹立とローマ教皇の援護は達成されるどころか完全に無視されたからです。

確かに、世界の最果て・ジパングからやってきた、ちょんまげ姿の侍への「興味本位」から、表向きは歓迎の意を示しました。マドリッドでは国王フェリペ3世が謁見し、国王臨席のもと、支倉常長はカトリック教徒の洗礼を受けたのですから。洗礼名は繰り返しになりますが「フランシスコ」です!


さらに、ローマでは教皇パウロ5世の謁見に浴し、ローマ市民権と貴族の称号を受けるという、日本人としては唯一無二の光栄を受けたのです。



バチカン
写真2(権威の象徴ともいえる豪華なバチカン内部。常長はここで教皇に謁見しました)

パウロ5世
写真3(パウロ5世の肖像画=国宝。常長が持ち帰り仙台市博物館に展示されています)



しかし、国王、教皇ともに、歓迎姿勢とは裏腹に、日本への限りない不信感、いや、憤怒にも似た感情を押し殺して面会に応じていたのです。このことを忘れてはなりません。



前回お話した通り、当時の欧州は宗教改革の激震に見舞われ、カトリックとプロテスタントの主導権争いはし烈さを増していました。軌を一にするように、スペイン、ポルトガル主導の新航海時代が幕を開け、新大陸や航路の発見とセットで信者拡大を図るという、沸き立つ時代に突入していました。


日本から派遣団が訪れたことは、当然ながら「朝貢外交」と認識され、カトリックの威光が世界の隅々にまで広まっていく吉報ととらえられる一方、時はすでに「情報化時代」。世界各国に散らばった宣教師から国王や教皇には、膨大な報告がもたらされていたのです。


支倉たちが欧州を訪れていた時、日本では何が起きていたのでしょう。徳川幕府は明確にキリシタンを邪教とみなして禁止し、国交を閉ざす鎖国体制へとかじを切りました。とりわけ禁教政策を徹底させ、宣教師の国外追放やキリシタン(切支丹)の迫害・拷問・処刑など、現代のホロコースト(大量虐殺)に通じる弾圧を強化していきます。


こうした過酷な現実を耳にした国王や教皇は、支倉らに対する不信を募らせ、ヨーロッパの人たちの評判も悪化の一途をたどります。使節を派遣した伊達政宗がキリスト教徒でないことも疑惑や臆測を招き、遣欧使節は結果的に門前払い同然の扱いを受けたのです。



使命を果たせず、7年にも及ぶ苦難を経て帰国した支倉は、沈黙を保ったまま、約2年後、51歳で死去しました。その最期はいまなお謎に包まれています。棄教したのか、処刑されたのか、自ら命を絶ったのか。そして、長い旅に寄り添ったスペイン人宣教師ルイス・ソテロの行方はどうなったのでしょうか?


「沈黙」で知られる遠藤周作のもうひとつの代表作に、常長を主人公とした「侍」(新潮文庫)があります。作品を読み進めつつ「侍」の悲運を思う時、あふれる涙が止まりません。


遠藤周作
写真4(「沈黙」と並ぶ代表作「侍」を書いた遠藤周作)