仙台藩主伊達政宗がスペイン国王とローマ教皇のもとに派遣する慶長遣欧使節が月の浦(現在の石巻市)を出航したのは1613年(慶長18年)10月28日のことでした。


スペインの航海技術の粋を尽くし、江戸の船大工が造り上げた帆船サン・ファン・バプティスタ号には、支倉常長やフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロのほか、江戸や堺の豪商など180人が乗船したと記録に残っています。

世紀の大デレゲーション。こう言っても過言ではないでしょう。



支倉常長
写真1(仙台藩士支倉常長)



ソテロ
写真2(スペイン人宣教師ルイス・ソテロ)



出航にあたって、当時の国際情勢をざっと振り返っておく必要があります。



現在のローマ教皇フランシスコが就任に当たり、その名を求めたイタリア・アッシジの聖人フランチェスコの話をした際、「フランチェスコが宗教改革の小さな灯りをともした」と書きました。カトリック教会の堕落、腐敗が進む中で、やがてプロテスタントと呼ばれる新しい潮流が生まれます。


慶長遣欧使節が派遣された16世紀から17世紀にかけて、欧州は宗教改革の波が押し寄せ、カトリックとプロテスタントが対立する激動の時代に突入していました。


一方、軌を一にするように、スペインとポルトガルが新航路と新大陸の発見を競い合った時代でもあります。コロンブスによるアメリカ大陸の発見はいつだったか、みなさん覚えていますか。1492年。「いよ~、国が見えた」。こんな語呂合わせで年号を記憶した方も多いのではないでしょうか。


スペイン、ポルトガルはカトリック教国です。新大陸の発見は、カトリック教徒を新世界に拡大していく政策とまさに裏表の関係にあり、殺気立っていたのです。



ローマ教皇・アレキサンデル6世は1494年、新航路を発見した国は、その航路と踏み入れた土地の領有、さらには交易とカトリック宣教を独占的に進める権利を有すると宣言しました。これはとりもなおさず、カトリックこそが世界の覇者、保守本流であり、新教プロテスタントは危険な異端分子! 高らかにこう宣言した勅令と言っていいのです。




スペインとポルトガルはそれぞれ別の方法で新世界へアプローチしたことに、みなさんはお気づきでしょうか。




日本に初めて鉄砲を伝来させたのはポルトガル人。諸説あるものの、1543年に種子島に伝わったと習った方が多いでしょう。

年号はともかく、ポルトガルはアフリカ最南端の喜望峰を回り、インド経由でゴア→マラッカ→マカオへ向かう東方航路で日本にやって来ました。



一方、スペイン人は大西洋からメキシコを経て太平洋を横断し、マニラなどを経由して日本へ向かうのです。いわば西方航路と呼ばれるルートです。メキシコはスペインが先住民族を虐殺して植民地化したため「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」と呼ばれていました。

こうした激動の時代の波が日本に及ばないわけはありません。



月の浦を出航したサン・ファン・バプティスタ号がなぜ、太平洋を横断する西方航路を取ったのか。みなさんはすでにお分かりですね。伊達政宗が派遣した遣欧使節を率いたのがスペイン人宣教師ルイス・ソテロだったからにほかなりません。この使節はローマ教皇とともに、スペイン国王との謁見を目的とした通商ミッションでもあったのです。



支倉航路

写真3(支倉常長の遣欧使節の航海ルート。太平洋を横断しメキシコを陸路横断。スペインの船隊に同乗させてもらいマドリッド、ローマへと向かいました)



ソテロについては詳細な経歴が残されています。

1574年にスペイン南部の大都市セビリアで上流貴族の次男として生まれました。名門サラマンカ大学で神学を学んだ超エリートで、語学の天才と言われています。

大学在学中にフランシスコ修道会に入会。1599年にメキシコ経由でフィリピンへ。マニラ在住中に日本人から日本語を学んで完ぺきにマスター。1603年に日本に入国し、布教活動にかける情熱は在日宣教師の間で飛び抜けていると評判でした。



語学に長けたソテロが傍にいることは、支倉常長にとっては好都合。欧州でのコミュニケーションは全く不自由がなかったといいます。



出航が長引きました。帆船は月の浦から太平洋の荒海を超え、メキシコを目指します。第一歩を記したのは西海岸のアカプルコでした。


アカプルコ

写真4(支倉常長が一歩を記したメキシコのアカプルコ。現在は世界有数のリゾート地です)