この写真を見て、みなさんはどこのまちか分かりますか。日本の都市です。
写真1(ケヤキ並木がまちを彩り、別名「杜の都」といわれます)
豊かな街路樹が、大きな通りに緑陰をつくっています。まるでうっそうとした森の中にいるような、不思議な気分になります。まちは、別名「杜の都」と言われています。どうでしょうか。そう、仙台です。
訪れたことがある人なら、この通りが「青葉通り」と呼ばれていることを知っているでしょう。JR仙台駅を背に、真っすぐ延びる大通りです。地下鉄を使わず、この通りを歩いてみましょう。
ケヤキ並木が続くこの大通りを行くと、まち屈指の繁華街である一番町のアーケード街と交差します。目印は、札幌の丸井今井のような、地元の老舗デパート藤崎です。
さらに歩きましょう。松尾芭蕉の旅の拠点となった「芭蕉の辻」があり、「荒城の月」を作詞した土井晩翠の居所「晩翠草堂」を過ぎ、さらにまっすぐ進むと、やがて広瀬川に架かる石造りの「大橋」を跨ぎます。目の前に青葉山。突き当りは東北大学のキャンパスが広がり、右手には国際会議場があります。
わたしたちが目指す目的地。それは、国際会議場の向かい側にある施設。仙台市博物館です。
写真2(仙台市博物館にはキリスト教に関連する貴重な国宝が数多く展示されています)
なぜ仙台の、この博物館を訪れたのでしょうか。
話が急に飛躍したので、驚いた方も多いでしょう。話を少しさかのぼってみましょう。
前回まで、わたしたちはイタリア中部の聖地アッシジを訪ねていました。2011年にローマ教皇に就任したフランシスコが、教皇としての名を求めた聖人フランチェスコの生誕地、それがアッシジでした。ウンブリア平野を望むフランチェスコ大聖堂で聖人の墓所とジョットが描いたフレスコ画を鑑賞し、貧しき者の中に常に身を置いたフランチェスコの短い人生に思いを馳せましたね。
現在の教皇がアッシジの聖人フラチェスコに名前を求めたと聞いた時、私の脳裏には同時に「ある人物」の名前が思い浮かびました。江戸時代の初期。現教皇と同様、「フランシスコ」という洗礼名を授かって、当時のローマ教皇に面会した日本人のことを…!
支倉常長。この人名をみなさんは聞いたことがありますか。「はせくら・つねなが」と読みます。では、「慶長遣欧使節(けいちょう・いおう・しせつ)」という言葉を知っていますか。いずれも高校の日本史の授業で習ったことがあると思います。
写真3(仙台市博物館に展示されている支倉常長の肖像画。国宝であり、ユネスコの世界記憶遺産にも指定されています)
まず、慶長遣欧使節について。日本史の歴史事典を引いてみました。
江戸時代初期の1613年(慶長18年)、仙台藩主伊達政宗がスペイン人宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使とし、スペイン国のフェリペ3世、ローマ教皇パウロ5世のもとに派遣した宗教・通商ミッション。
こう書かれています。みなさん、覚えていますか。
では、支倉常長はどうでしょうか。同じ辞典を引いてみましょう。
伊達家の家臣として1571年、現在の山形県米沢市で出生。政宗が派遣した使節を率いて太平洋を横断、現在のメキシコを経て渡欧し、日本人としてローマ貴族の称号を受けた唯一無二の人物。スペイン・マドリッドで洗礼を受けカトリック教徒となる。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。帰国直後の1622年、51歳で死去。死没地など詳細は不明。
洗礼名はフランシスコ、しかもフランシスコ会のカトリック教徒とは!
これは偶然でしょうか。現在のローマ教皇と同様、常長もアッシジの聖人に名を求めたことになるのです。フランチェスコはカトリック教徒にとって、当時から理想の体現であったことを証明しているといってもいいでしょう。
仙台市博物館には、支倉常長がローマから持ち帰った貴重なキリスト教関連資料が多数、保管されています。展示されている47点はすべて国宝です。さらに、これらは2013年、ユネスコの世界記憶遺産にも指定されました。
これから、支倉常長の壮大な船旅を辿りながら、このミッションがいまのわたしたちに何を問いかけているのか、思索を巡らせるもうひとつの旅に出ましょう。