わたしたちはなぜ、イタリア中部の聖地アッシジにあるフランチェスコ大聖堂を目指したのでしょうか。
昨年11月、ローマ教皇が日本を38年ぶりに訪問しました。教皇フランシスコは南米アルゼンチンの出身で、2011年に就任しました。その際、教皇として自らの名前を求めたのがアッシジに生まれた清貧の聖人フランチェスコでした。いまから800年近く前の12世紀末から13世紀初頭にかけて、わずか44年の短い人生を生きたのがフランチェスコです。アメリカ西海岸の都市サンフランシスコの名前の由来にもなったと書きました。
その聖人の足跡を辿るのが今回の旅の目的でしたね。
写真1(アッシジのまちのあちこちにフランチェスコの像があふれています)
セレブの家に生まれ、何ひとつ不自由のない生活を送っていたフランチェスコが、神の啓示を聞き、聖言に従って生きる道を選んだのは20歳のころでした。清貧で無垢、貧しい民衆の中に常に身を置き、生涯を神に捧げる。その姿は後世、「キリストに最も近い聖人」として称えられてきました。
禁欲的な宗派として知られるフランシスコ会はなぜ、この時代に誕生したのでしょう。フランチェスコが登場したのは偶然ではない。きょうはこんなお話をしておきたいのです。
写真2(カラバッジョ作とされる「瞑想のサンフランチェスコ」)
中世盛期と位置付けられる11世紀以降、欧州ではキリスト教が庶民に浸透し、信者を拡大していきます。そんな中で、司祭たちは人々と教会の結びつきをより強固にするため、キリスト教に基づく倫理観を徹底的に教え込むようになったのです。
その倫理に反するような行為をすれば、教会に呼びつけて告白・懺悔をさせ、神の許しを請うよう厳しく諭します。これは一見、人心をつかむ手段ではありますが、次第にその倫理感から離れ、告白・懺悔を金で帳消しにする「免罪」というシステムが導入されていきます。有力者からの寄進や自らの商行為によっても教会はより豊かに、肥大化していくのです。その果てにやってくるものはー。
そう。腐敗、そして堕落です。
多くの会社や組織でこうした現場を目撃してきた現代のわたしたちにとって、その状況は容易に想像できるかもしれません。
たとえば修道士を例にとりましょう。神に仕える修道士は独身を貫かなければなりません。女性と交わることなく、一生童貞を通す。世俗の快楽から超越した世界を生きるのが修道士なのです。
ところがどうでしょう。10世紀にはその大半が妻帯し、子供を設け、地元の権力者と結びつき、強奪にも手を染める。宗教者にはあるまじき行為が公然と行われるようになります。女性関係は乱れ、少年や少女を恋愛対象とする小児愛や修道士同士の同性愛も日常化していくのです。
こうした腐敗をただす内部改革の動きが欧州に生まれたのが11世紀でした。ひとつはフランス南西部で発祥したドミニコ会、そしてもうひとつがここ、アッシジに誕生したフランシスコ会です。のちにパリで結成されたイエズス会と並び、世界各国への布教活動を担う組織として発展していきます。
写真3(フランチェスコに帰依した女性聖人キアラを祀るアッシジのサンタ・キアラ聖堂)
ふたつの修道会はどちらも清貧と労働、托鉢を重んじ、「托鉢修道会」と総称されます。とりわけ、一切の財産の取得と所有を禁じ、「無所有」を実践したフランシスコ会はひたすら、布教活動に力を注いでいきました。
前回、フランチェスコの半生を描いた巨匠ロッセリーニ監督の「神の道化師、フランチェスコ」のラストシーンに触れました。サンフランチェスコが11人の修道士に対し「ぐるぐるまわれ」と声を掛け、目が回って倒れた方角を行き先と定めて、それぞれが布教の旅に出ていく。フランシスコ会の布教活動の原点とも言える光景がここに描かれています。
キリスト教の腐敗と堕落はみなさんご承知のように、やがてウィクリフ(英国)や火あぶりの刑に処せられたフス(チェコ)をはじめ、ツウィングリ(スイス)、ルター(ドイツ)、カルヴァン(スイス)による宗教改革へとつながります。カトリックに対しプロテスタントという巨大な対抗軸を生み出していくのは、ご承知の通りです。
その意味で、サンフランチェスコこそが、宗教改革の前兆となる小さな灯りをともした。こういっても過言ではないと私は考えます。ですから、みなさんにはぜひ、その原点となったアッシジに足を向け、ローマ教皇の名前の源泉であるフランチェスコと対峙してもらいたいと思うのです。