名画とはときに、何と数奇な運命を背負うことか。ピカソの「ゲルニカ」を思うたびに、こんな感慨があふれてきます。

ニューヨーク近代美術館(MoMA)で“塩漬け”となった「ゲルニカ」に再び動きが生じるのは実に、30年以上が経過した1970年代以降のことでした。



まず、ピカソが73年に91歳で世を去ります。続いて、75年には独裁政権を続けてきたフランシスコ・フランコが死去しました。スペインに民主化の波が押し寄せる中で、「ゲルニカをスペインへ」との運動がにわかに盛り上がりをみせるのです。


民主化後、初の総選挙で誕生した新政権は77年、「ゲルニカ」の米国からの返還を求める決議案を国会に提出。圧倒的多数で可決されたのを受け、81年には米政府の承認のもと、首都マドリッドのプラド美術館を暫定的な保管場所として、スペインへの帰還を果たします。


プラド美術館
写真1(「ゲルニカ」が米国から移送され暫定的に保管されたプラド美術館)



しかし、今度は国内で「ゲルニカ」をどこに展示すべきかをめぐって論争が巻き起こり、収拾がつかなくなります。



誘致に名乗りを挙げたのはみなさん、想像がつきますね。

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「ゲルニカ」はせっかくスペインに戻ったにもかかわらず、最終的な落ち着き先が決まらないまま、プラド美術館別館の小部屋で眠り続けました。何ともったいないことでしょう。



スペイン政府が妥協策として考えたのが、1992年に開館したマドリッド市内のソフィア王妃芸術センターへの保存・展示だったのです。このセンターは、いわば「ゲルニカ」を収蔵するために造られた施設といっても過言ではないでしょう。



開館当時、万一の事故に備えて、防弾ガラスが設置され、さまざまな監視システムも導入されましたが、3年後にはすべてが撤去され、いま来館者は自由に鑑賞することができます。ただし、絵画の両脇には警備員が配置されており、絵画から4メートルの距離にまでしか近づけません(4メートルのところには、金属の棒が4本、立っています!)。


ゲルニカ・ソフィア
写真2(「ゲルニカ」の前には人垣が絶えません)


爆発物の検知を含め厳重なテロ対策が取られた絵画は、世界中を見回しても、「ゲルニカ」を置いてほかにないでしょう。絵の前に立つと、不思議と悲しい気持ちに襲われるのは、ゲルニカが辿ってきた特殊な運命によるのかもしれません。



わたしたちはいま、ソフィア王妃芸術センター2階の展示室にいます。目の前にあるのは紛れもなく、巨匠パブロ・ピカソが描いた名作「ゲルニカ」です。あらためて作品と真正面から向き合いましょう。


ゲルニカ画像
写真3(「ゲルニカ」は縦3.49㍍、横7.77㍍。横長の大作です)



この作品がどのような状況で誕生したかについては、繰り返し書いてきました。ですから、わたしたちは、そこに何が描かれているのか、目を凝らして観察するのです。



「ゲルニカ」には人間の顔が六つ描かれていることが分かりますか?

目を右から左に移していきましょう。まず、建物から落下していく女性、その左手には灯火を持っている女性が。すぐ下に視線を向けると、中央に向かって走り込んでいく女性の姿が見えます。画面左側に目を移しましょう。子供の死体を抱いている女性がいて、その下には、口を開けて床に転がる兵士の死体が判別できますね。



人間のほかには、牡牛と瀕死状態の馬が画面中央と左に描かれています。濃淡がはっきりしませんが、馬と牛の間に机が置かれ、その上に一羽の鳥が描かれているのが分かりますか?



中央左側には内部に電球がある「目」のような光源がしっかり確認できると思います。右端の上部には扉の窓が描かれています。絵の構成要素はこれですべてです。一見、複雑に見えますが、意外に単純です。




この画面を凝視しながら、どうでしょう。ピカソの声なき声は聴こえてきますか。