スペインの首都マドリッドは人口350万人、周辺を併せた都市圏人口は550万人を数え、名実ともに欧州屈指の大都市です。


かつて太陽が沈まぬ国と呼ばれ、無敵艦隊が世界を制覇した王国は、歴史の変遷・浮沈を経て、20世紀は激しい内戦後、軍事独裁政権から民主国家を誕生させ、再び輝きを増しつつあります。



まちの中心は地下鉄の「Sol(ソル)駅」。スペイン語で「太陽」を意味します。さすが太陽の王国らしい命名です。東京でいえばさながら銀座でしょうか。マヨール広場や王宮、グランビアなど観光名所に近く、マドリッドを訪れた人がメルクマールにする重要な拠点です。


北部バスク地方の古都ゲルニカを後にしたわたしたちは、いま、首都のど真ん中にいます。ソル駅に降り立ち、人波をかきわけ、南に1・5㌔ほど離れた国内最大のターミナル・アトーチャ駅を目指しています。


アトーチャ駅はスペイン南部の主要都市と首都を結ぶ高速鉄道(新幹線)の始発駅。国境を越えて隣国ポルトガルに向かう国際列車も頻繁に発着します。


目的地は、アトーチャ駅ではなく、その駅前広場の向いに位置する国立美術館「ソフィア王妃工芸センター」です。マドリッドといえば、ゴヤやベラスケスを収蔵するプラド美術館が世界的に知られており、「ソフィア」の名前は馴染みが薄いでしょう。

 
ソフィア王妃
写真1(ゲルニカが展示されているソフィア王妃工芸センター)

 

この耳慣れない美術館をなぜ訪れたのか。それは、ここに「あの作品」があるからです。



ソフィア・ゲルニカ
写真2(ゲルニカの前には常に人垣ができています)

 


前回から少し話が飛躍しました。時空を巻き戻してみましょう。





1937年のパリ万博で、スペイン館の正面玄関に飾られたのがピカソの「ゲルニカ」でした。万博開幕の1カ月前、古都ゲルニカがドイツ軍によって無差別攻撃されたニュースを知ったピカソは、出品作を急きょ変更、「スペイン軍部への嫌悪の意味を込めて『ゲルニカ』を出品する」と発表し、わずか1カ月という短期間で一気呵成に完成させます。


作品は、世界中に衝撃を与えました。その解釈については、次回に譲るとして、「ゲルニカ」は6カ月間の開催期間を終えた後、どうなったのでしょう。


万博開催時の1937年、スペインは激しい内戦の中にありました。ピカソに製作を依頼した共和国政府は、1年後、フランコ将軍率いる反政府軍に屈服して、首都を制圧されます。スペインはその後、軍事独裁政権へと移行しました。


フランコ
写真3(30年以上にわたり国家元首として君臨したフランコ)



フランコ将軍への怒りを込め、「嫌悪」という言葉を使って製作された「ゲルニカ」が母国に戻ることなど到底、考えられません。

フランコはピカソを毛嫌いし、ピカソはフランコ支配が続く限り、スペインには渡さないと宣言します。所有権を持つ共和国政府の崩壊とともに、ゲルニカの漂流が始まったのです。



ピカソは73年に91歳で死去するまで、2度とこの作品と対面することがなかったことを考えると、時代に翻弄された名画と言わざるを得ません。



「ゲルニカ」はその後、ノルウェーのオスロを皮切りに、ロンドンや米国主要都市で巡回展示された後、ピカソの最高傑作とされる「アヴィニョンの娘たち」(Les Demoiselles d’Avignon)を収蔵するニューヨーク近代美術館(MoMA)」に緊急避難先として運び込まれます。


アヴィニョン
写真4(
MoMAを代表する収蔵作品「アヴィニョンの娘たち」)




ピカソはその後、自分の手元に置こうと、フランス政府に働き掛けて返還を計画しましたが、世界は戦争一色となり、39年には第2次大戦が勃発。結局、MoMAの一室に保管されたまま、ほとんど公開されることもなく、時だけが過ぎていくのです。




写真1:ゲルニカを収蔵するマドリッドのソフィア王妃工芸センター

写真2:2階の特別展示スペース。ゲルニカの前には常に人垣ができています

写真3:国家元首として君臨したフランシスコ・フランコ

写真4:ピカソの最高傑作とされる「アヴィニョンの娘たち」