前回のタイトルと本文の最後で「なぜこの小さなまちゲルニカが攻撃対象になったのか」と疑問形で終えました。


冒頭からその問いに答えましょう。



それは、



ゲルニカが自由と独立を象徴するまちだったから。




 

ゲルニカは人口1万5000人の小さなまちです。確かにピカソの絵によって、その名は世界に知れ渡りましたが、実はスペイン国内、いや欧州では、歴史を学ぶ人ならだれでも、その存在を知っています。

18世紀のフランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーはこんな言葉を残しました。

「ゲルニカには地上で一番幸せな人々が住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農夫たちが自らを治め、その行動はつねに賢明なものであった」


ゲルニカの木
写真1(バスク地方の自治を象徴する「ゲルニカの木」)



ゲルニカはバスク地方最古の都市です。中世から自治と民主主義の中心であり続け、まちの小高い丘にはバスク議事堂とゲルニカの木がそびえています。この木こそ、ルソーが記した「樫の樹の下に集う」の言葉にある樫(オーク)です。この地方を統治する各地の領主は必ず、この樫の木の前でフエロ(地方自治)の順守を誓ってきたのです。


バスク地方の経済と商業の中心地はビルバオですが、自治・政治の中心はいまなおここゲルニカにあります。バスクの自由と独立を象徴するまち。人々がこう誇らしく胸を張るのは、長い歴史と伝統に基づくものです。


バスク議事堂
写真2(議事堂の天井を彩るゲルニカの木を模したステンドグラス)



空爆のあった1937年当時、ゲルニカには人民戦線の部隊が配置され、軍需工場も存在していました。ピレネーの山岳地帯に近く、内戦に対して中立を宣言していたフランスに近接するという地理的な条件もあり、フランコ将軍の反乱軍を支援するドイツ(ヒトラー)は、このゲルニカに狙いを定めて、無差別の集中攻撃を仕掛けたのです。いわば民主主義と自由への挑戦だったといってよいでしょう。


ドイツ軍によるゲルニカへの無差別攻撃のニュースは、まずロイター通信がマドリッド駐在記者の至急電として配信しました。短い一報でしたが、ニュースは世界を駆け巡ります。一報に続いて、ビルバオから現地に向かった英紙タイムズをはじめとする4人のジャーナリストによる現地ルポも次々と配信され、フランコ将軍を支持するドイツによる暴挙は国際的に波紋を広げていきました。


中立姿勢を保っていた隣国フランスでも当然、ゲルニカのニュースは大きく報道されました。


フランスはなぜ、スペインと一線を保っていたのでしょうか。

1937年。この年は、パリで万国博覧会が開催される年で、その開幕はゲルニカ空爆の4月26日からわずか1か月後、5月25日に迫っていたのです。

フランス政府は国家の威信をかけて、万博成功に心血を注いでいました。スペイン内戦に関与する余裕がなかった、というのもひとつの真実かもしれません。


万博には米国やソ連、ドイツ、イタリア、スペイン、日本など44か国が参加しましたが、覇権を競う共産主義国・ソ連とナチス率いるドイツのパビリオンが向かい合って設営され、格好の話題を提供したことでも知られます。


ゲルニカの複製画
写真3(ゲルニカの住宅街に描かれたピカソの複製画)



しかし、それ以上に話題を集めたのが、内戦さなかにあったスペインのパビリオンでした。



スペイン政府はパビリオン(スペイン館)の正面玄関に飾る作品を、パリ在住のパブロ・ピカソに依頼し、承諾を得ていました。しかし、どんな作品を出品するのか。ピカソは公表しませんでした。開幕が迫る中、祖国から伝わってきたのがゲルニカ爆撃のニュース。ピカソは急きょ、「スペイン軍部への嫌悪の意味を込め『ゲルニカ』を製作、出品する」との声明を発表。ほぼ完成していたとされる出品作を投げ捨てて、ゲルニカの製作に取り掛かります。


“世紀の名作”はわずか1か月で誕生したのです!




写真1:バスク地方の自治を象徴する「樫の木」

写真2:バスク議事堂の天井にも「樫の木」のステンドグラスが飾られています

写真3:ゲルニカの住宅街に描かれたピカソの複製画。記憶を今に伝えます