その絵は、縦197㎝、横249㎝。パブロ・ピカソが16歳の時に描きました。



タイトルは「科学と慈愛」。



いまわたしたちは、バルセロナの旧市街ゴチック地区にあるピカソ美術館にいます。700年ほど前に建てられた城を5つ繋ぎ合わせ、ピカソの若き作品を中心に展示することだけを目的につくられたのがこの美術館です。バルセロナで青春時代を過ごしたピカソに対しオマージュを捧げる空間といっても過言ではありません。

中でも、ひときわ人だかりができている場所、それがこの「科学と慈愛」の前です。



まるで、パリ・ルーブル美術館の「モナ・リザ」と同様の賑わいです。



前回に続き、この作品を再掲します。スペイン語で「Ciencia y Caridad」といいます。


ピカソ「科学と慈愛」(1897年)
写真1:ピカソ
16歳の作品「科学と慈愛」

 

この絵を見て、作者がピカソだと即答できますか? ピカソといえば大半の人が「ゲルニカ」(マドリッド・ソフィア王妃芸術センター)や「アヴィニョンの娘たち」(ニューヨーク近代美術館)に代表されるキュービズムやシュルレアリスム期の作品を思い浮かべるのではないでしょうか。



じっくり見てみましょう。画面中央には黄色いカバーの掛かったベッドに危篤の老婆が横たわっています。その傍らで医師が患者の脈を取っています。その表情からは手の施しようのない絶望感が漂います。一方、ベッドの奥には幼児を抱えた尼僧が柔らかな眼差しで患者を見守っており、緊張感の中に安らぎを与えています。


医師が科学を、尼僧が慈愛を表しています。構成は極めて古典的。巧妙な筆致による素材感のある表現やデッサンの正確さが賞賛を集めました。もちろん、これが16歳の少年の作品であることが驚きを持って受け止められたのは言うまでもありません。




では、作品はどのような背景で誕生したのでしょうか。




ピカソはスペイン南部の港町マラガで生まれました(マラガとバルセロナ、首都マドリッドの位置関係を地図で確認してください。北部の都市ビルバオはのちほど登場します)


Inkedスペイン地図
写真2(スペイン地図)



幼少期から絵筆に親しんだピカソは、小学校時代から才能を発揮し、地元マラガでは「この少年には栄光の未来が約束されている」と注目を集める存在でした(事実そうなります)。



ピカソには愛するコンチータという妹がいました。ある日、コンチータはジフテリアに冒され、病の床に就きます。ベッドの横でピカソは神様と契約を交わしました。契約とはーー。「妹の命を救ってくれるなら自分の絵の能力を生贄として捧げ、2度と絵筆を握らない」。

願いはむなしく、コンチータは旅立ちます。



「妹は死をもって自分を画家にしてくれた」。こう確信した少年ピカソ渾身の作が「科学と慈愛」でした。最愛の妹を失った苦悩と悲しみ、科学をもってしても人の死は免れない不条理…。静謐な画面の中から複雑な思いがにじみ出てきます。

この下絵をピカソは死ぬまで手元に置き、棺の中に納めたとも伝えられます。



「科学と慈愛」こそ、ピカソが美の巨人へと昇り詰めて行く原点となった作品であり、のちに破壊と創造のエネルギーをもたらす契機となりました。絵の前の人だかりは途切れることがありません。

 

館内では、「科学と慈愛」から4年後に描かれた「マルゴット」(1901年)も大きな人気を呼んでいます。覗いてみましょう。


マルゴット
写真2(マルゴット)




これは、ゴッホに影響を受けたピカソが点描画法を駆使した作品です。モチーフは娼婦。黄、赤、緑、黒などの原色を使い、華やかな赤色の洋服を着た女性からはけだるさが漂います。ピカソが初めてパリを訪れた20歳の時に描かれた、いわば“国際デビュー”を果たすきっかけとなった一作。




どうですか。バルセロナに行きたくなってきたでしょう!




写真1 ピカソが16歳の時に描いた「科学と慈愛」

写真2 スペイン地図。バルセロナは生まれ故郷のマラガ同様、地中海に面した港町です

写真3 ピカソの名を世界に広める契機となった「マルゴット」