年を重ねるにつれ、自分がまだ10代、20代のころの情熱のほとばしりのようなものが懐かしく思い起こされることがあります。将来の道を、自らの意志で切り開こうとするそのエネルギーには、まだ見ぬ未来への漠然とした不安に打ち勝つ、怖れを知らない勢いがあったように思います。


こんなことをふと、考えたのは、わたしたちが長年、主催してきた「学生美術全道展」(学生展)がこの10月をもって、61回の歴史に幕を下ろしたからです。若い芸術家の登竜門として、道内の美術界で大きな役割を担ってきた学生展を閉じるにあたっては、選考をお願いしてきた全道展の会員の皆さまの苦渋の決断があったと聞いております。



その経緯については、私の隣で仕事を共にしている常務取締役の若林直樹さんが、全道展の交流紙「ZEN」58号(2019年9月号)に、「終わりはこれからの始まりだ」と題して寄稿しています。


高校時代、美術部に在籍しつつミュージシャンを目指した忌野清志郎さんの逸話を枕に、美術を志向する若者が全国的に減少する現状と、それと軌を一にするように学生展への出品が激減する状況に言及した上で、世界的に活躍する彫刻家安田侃さんを生んだ学生展の閉幕に寂しさをにじませつつ、若い才能へのエールを送っています。



全道で最も人口の少ない上川管内音威子府村(人口744人=2019年5月現在)には、将来の美術・工芸家を育成する目的で、村立おといねっぷ美術工芸高校が開設されています。今回、最後となった学生展には、応募作121点のうち、32点が同校から出品されました。小さな村に道内外から集う若者たちの夢が決して閉ざされることのないように。若い個性と才能を発掘し、開花できる場を、本展の中にぜひ設けてもらいたいと強く願っています。






私が「若き才能」といって、まず脳裏に浮かぶのは、画家のパブロ・ピカソ(18811973年)です。ピカソというと皆さんは、画題を徹底的に分解、記号化した、あのキュービズムの創始者としての姿を思い浮かべるでしょう。しかし、ピカソがこの境地に辿り着くには、実は、長い下積みの時代があったことを忘れてはなりません。画学生として、膨大なデッサンを描き続け、絵画の基礎を徹底的に学び、その先に確立したのがキュービズムの世界――だったのです。

 
若きピカソ
写真1(パブロ・ピカソ)


私は40年近く、北海道新聞社の記者として過ごしてきましたが、この職業も画家同様、徹底した基礎があっての仕事だと痛感しています。

「いつ、どこで、だれが、どうして、何をした」。いわゆる5WHと呼ばれる基本情報をいかに正確に盛り込み、原稿を完成させるか。その妙味が新聞原稿です。

徹底的な基礎の確立があってこそ、原稿は説得力を持つわけですが、若い記者は、こうした基礎をおろそかにして、すぐに応用編の原稿を書きたがります。まるで小説を書くように。応用編とは基礎を発展させ、より複雑な原稿に仕上げる作業を指しますが、基礎がぐらついていると、構想や展開を含めた文章構成が不安定。読む側にとっては居心地が悪く、不安になってきます。揺るぎなき土台あっての応用です。まずは基礎を徹底的に叩き込む。



これは、記者に限らず、どの職業も同じですね。




若い記者に、私が口癖のように言ってきた言葉のひとつに「スペインのバルセロナに行きなさい」があります。少し唐突ですが…。一体、バルセロナには何があるのでしょう。

バルセロナ市
写真2(バルセロナの全景)



首都マドリードと並ぶスペイン屈指の大都市バルセロナは、カタルーニャ州の州都です。地中海に面した政治・経済・文化・スポーツ(サッカー)の中心であり、まちを歩いているだけで心が浮き立つ、魅力あふれるまちです。多くの人が、まずは建築家アントニオ・ガウディの「サグラダ・ファミリア教会」を思い浮かべるかもしれません。



でも、私がこのまちに行けと説く理由は、ガウディではありません。

バルセロナは、さきほど登場した画家のピカソが多感な10代を過ごし、美術学校に通ったまちです。そして、ここには、青春時代に描いた膨大な作品群を展示する「ピカソ美術館」があるのです。私が勧める目的、それはこの美術館を訪ねることです。


美術館でピカソの絵の前に立った人は驚くでしょう。「これがピカソの作品なのか」と。若きピカソが描いたデッサンは、なんと「ごく普通」であったことか! その「ごく普通」の上に、世紀の画家の画業が築かれたのです。確固とした土台の上に。




バルセロナに行って若き日のピカソに出会いましょう。




写真1:ピカソはスペインで生まれ、人生の3分の2をフランスで過ごしました

写真2:バルセロナの全景。中央に聳えるのがまちの象徴でもあるサグラダ・ファミリア教会です