「レ・ミゼラブル」の著者ビクトル・ユゴーが1821年、幼馴染みのアデール・フーシェと結婚式を挙げたのはパリ・カルチェラタンに近いサンシュルピス教会だったーー。ユゴーの女性遍歴を紹介する中で、こんな話に触れたのを覚えていますか。

 


フランスのジャック・シラク元大統領が先日、86歳で亡くなりました。葬儀の映像を見ていて、その会場こそ、ユゴーが結婚式を挙げた教会であることに気付きました。サンシュルピスは、火災に遭ったノートルダム大聖堂と並ぶカトリックの総本山。葬儀の厳粛さとともに、創建から300年を経て変わらぬ石造りの教会の威容に心を打たれました。



 

さて、ユゴーの女性問題を巡るとりとめのない話を繰り広げてきましたが、一連の話も今回が最後。前回、女性狂いのユゴーが、いまなおフランス人の敬愛を集めているのはなぜでしょう? その真相を知るには、パリに行きましょうと提案しました。

 

目的地はビクトル・ユゴー記念館(La maison de Victor Hugo)。パリ屈指の歴史地区に指定されているマレ地区、その中心ボージュ広場の一角にあると記しました。この広場は、シテ島やパリ市庁舎、バスチーユ広場などの観光名所からも簡単に歩いて行ける場所ですが、なぜかここだけ時間がとまったような、静寂に包まれた空間です。



ボージュ広場
写真1(ボージュ広場)





この広場に面したアパルトマンにユゴーは1832年から16年間暮らしました。その居室が1902年に改装され、現在記念館として開放されています。当時、ユゴーは30歳。まだ女性狂いは始まっておらず、妻アデールとの関係は良好でした。


豪華な居室には、ユゴーが古典主義に反旗を翻したと評される戯曲「エルナニ」をはじめ、ロマン主義の旗手としての地位を不動のものとした長編小説「ノートルダム・ド・パリ」をはじめとする名著の数々が紹介されています。これらはすべて、「レ・ミゼラブル」を執筆する助走となった作品と言っていいでしょう。記念館を歩いていると、ユゴーが女性に溺れて身をやつすだけの「バカボン(ばかなぼんぼん)」ではないことが分かります。



日本では「レ・ミゼラブル」の筆者としてのみ知られるビクトル・ユゴーですが、83歳で生涯を閉じるまで、超人的といえるほどの創作活動を続けました。それは60歳を過ぎてなお、若い女性と交わる強靭な肉体と衰えぬ性欲があってこそ…かもしれません。




猛烈な創作の中で、ユゴーが追い求めたのは一体何だったのでしょうか。



ユゴーが残した言葉があります。「文学者が奉仕すべき対象は王家でもなければフランスの伝統でもない。文学は社会の不正をただし、社会的弱者を解放する手段となる。そのために、民衆は教化・啓蒙され、未来への道を開いていかなければならない。それを体現することが自らの役割である」



レ・ミゼラブルを思い起こしてみましょう。

1本のパンを盗んだために19年間、刑務所に入れられ、人間への不信を抱きつつ仮出獄した主人公ジャン・バルジャン。彼は人間愛に満ちたミリエル神父に感化され、その後、贖罪の生活を実践し、極端な自己犠牲を強いながら、神のような大往生を遂げます。



「貧困のせいで男が堕落し、ひもじさのせいで女が身を持ち崩し、暗い境遇のせいで子供がいじけてしまう悲惨な社会を放置するわけにはいかない。民衆の境遇を変えるには、この小説(レ・ミゼラブル)も無益ではないだろう」。こう書いたユゴーの言葉は、執筆への強い使命感と古い価値観から決別する意志の表れと言っていいでしょう。



仏文学者の辻昶(とおる)さんは、「人と思想『ヴィクトル・ユゴー』」(清水書院センチュリー・ブックス)で、レ・ミゼラブルを例に挙げながら「ユゴーが目指したのは文学的解放と社会的解放、さらには宗教的解放であり、これらが混然となり統一されて、ひとつのユゴー的な宇宙がつくられ、数々の名作が生み出された」と論じています。




ユゴーは19世紀前半の世にあって、常に民衆の側に立ち、社会の変革のために闘った、ある意味では史上初の文学者だったと言えます。その姿勢はミュージカルの中で歌われる「民衆の歌」の歌詞に凝縮されています。だからこそ、ユゴーの死を国民=民衆がこぞって弔い、ときに紙幣の肖像として採用され、死後134年たったいまなお国民の敬愛を集める存在であり続けている。私はそう確信します。


5フラン札
写真2(ユゴーの紙幣)

 

ミュージカル「レ・ミゼラブル」の札幌公演をきっかけに始まった「ユゴー物語」はこれで終わります。お付き合いありがとうございました。

 

写真1:ビクトル・ユゴー博物館があるパリ・マレ地区のボージュ広場

写真2:かつてユゴーの肖像画とボージュ広場が採用された5フラン紙幣