映画「12人の怒れる男たち」(シドニー・ルメット監督、1957年)をご存知の人は多いと思います。
父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員らが論議し、真実に迫る過程が描かれます。ロケーションは、ほとんど評議の室内のみという手法が、逆に作品の緊迫感を強調し、高く評価されました。
もともとはテレビドラマで、原作者はアメリカの脚本家レジナルド・ローズ。彼が実際に陪審員を務めた経験から創作したとされます。
一般市民が抽選で司法に参加するアメリカの陪審制は、アメリカ的民主主義のひとつの現れ。対象となる事件について陪審員は、有罪か無罪かを評決します。有罪となれば、プロの裁判官が量刑を決めます。
さきごろ制度導入から10年を迎えた日本の裁判員制度は、有罪か無罪かだけでなく、量刑までも合議で決めます。
裁判員の方が陪審員より、さらに負担が大きいと言えます。
2008年と記憶します。制度導入に向けて、最高裁ばかりでなく各地の高裁、地裁も最後のPRに余念がありませんでした。わたしは地方都市の北海道新聞報道部におり、立場上、地裁・家裁の運営に意見を述べる委員会のメンバーでしたが、その場でも裁判員制度についての意見を求められました。
わたしの意見は、制度に懐疑的なものでした。
「司法に対する国民の信頼を言うのなら、裁判よりも捜査の在り方の方が問題が多いのではないか」
「裁判は真実を発見する過程であり、裁判員の負担を軽くするために審理を短縮するのは本末転倒ではないか」
「市民感覚を裁判に生かしたいのなら、刑事裁判よりも行政訴訟の方が対象にふさわしいのではないか」
などと申し上げたことを覚えています。
裁判官を交えた少人数の意見交換の場も設けられ、そこでは「裁判官が裁判に費やす時間を削って制度のPRをさせられるのは大変ですね。不満はないですか」などとぶしつけに聞いたりもしました。
わたしの考えはいずれも少数意見で、制度がすでに出来上がっている段階ではまったく無力でした。挑発したつもりの裁判官は「裁判官も司法機構の一員ですから」と、にっこりと返したのみでした。
わたしはどうしても、裁判を受ける被告人の立場で考えてしまいます。
自分が被告だったら、裁判員裁判を望むだろうか。
裁判員は真実の発見に全力を尽くしてくれるか。量刑は、ほかの同種の事件の被告と比べて公平なものか。
今に至ってもはっきりした答えは見出せません。
同時期、被害者関係者の裁判参加が課題になっていました。
これにはわたしは、はっきり疑問を持っていました。
被害者が家族にどれほど愛されていたか、審理の中で家族がどれほど感動的な訴えをできたかは、「真実の発見」にとって重要ではない。場合によっては公平性に欠ける結論を導きかねないと感じていたからです。
自分が被害者となった場合でもそんなことが言えるのか、という反論は当然あるでしょう。それまでの制度では、被害者の立場が不当に低かったことは否定できません。それにしても…。
その後、自分が裁判員に選ばれたら、ぜひ審理に全力投球したいものだ、と待ち構えているのですが、当選通知は来ないままです。また、裁判員経験者の友達もできないままです。
先日、注目すべき判決がありました。
障害を理由に強制的に不妊手術を受けさせられた女性が訴えた行政訴訟です。裁判所=裁判官は、根拠となった旧優生保護法は憲法違反だと認めましたが、それを正さなかった政府の不作為は認めず、損害賠償請求権も除斥期間を理由に認めませんでした。
旧優生保護法が存在したのは1996年まで。決して遠い過去のことではありません。手術を受けた人の多くが、この時点で手術後20年を経過していたといいますから、とんでもない人権侵害は1970代半ばごろまで続いていた計算です。行政の怠慢は明らかではないでしょうか。それこそ市民感覚からずれている。
同様の訴訟はこれからも各地の地裁で続きます。裁判官の市民感覚をよく見ていきたいものです。