「言論の自由」。


たいそうなタイトルを掲げましたが、これはわたしたちにとって譲ることのできない権利です。

文化イベントの主催を仕事の柱とするわたくしどもの会社にとっても死活的に重要です。
「言論の自由」、それと分かちがたい「表現の自由」「出版の自由」は、闊達な文化活動に欠かせない条件です。これがなければ、市民に広く支持される文化イベントも生まれません。

その「言論の自由」が、都合のいいように使われている。

2019年5月の北方領土ビザなし交流に参加し、国後島での訪問団の懇親会で酔っぱらった末に、「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」「戦争しないとどうしようもなくないですか」と、団長にからんだ国会議員のことです。

この発言自体とんでもないのですが、そのとんでもなさは、わたしが詳しく書くまでもありますまい。

注目しているのは、「次の段階」です。まあ、予想通りといえば予想通りなのですが、この人物が「言論の自由」をたてに、反論を企て、議員に居座ろうとしていることです。

ここで「言論の自由」を持ち出すのは筋違いであることは、しっかり指摘しておかなければならない。

いまさら偉そうに言うことではありませんが、「言論の自由」の本質は、「統治される側」にとっての「市民的自由」です。
「統治する側」が、その権力や権限を使って、「統治される側」の言論の自由を奪ったり抑圧したりしたら、「統治する側」には、やりたい放題になってしまう。それを抑止するために保証した「自由」なのです。

似たものに「国民の知る権利」があります。隠し事が漏れ出して犯人捜しをする「統治する側」がたまに「政府にも知る権利がある」などと口走ることがあります。これは違う。「知る権利」はあくまでも「国民の」権利です。政府にあるのは「知る権利」ではなく「知らせる義務」なのです。

これは付け足しですが、
「言論の自由」を横並びの市民に向けるときは、「自由」だけを主張することは許されず、「責任」も伴う。これもまた、当然のことです。

この議員に対して野党が5月17日、辞職勧告決議案を提出しましたが、与党側はもっとユルい譴責決議案を出し、ひょっとするといずれの決議案も廃案になるかもしれない状況です。
与党が辞職勧告に後ろ向きなのは、失言・暴言で辞職勧告の前例がない、こんな前例をつくったら後から色々出てきて際限がなくなりかねない(さすがに露骨にこうは言っていませんが)ということなのですね。


さらに―。
やはり出てきました。「国会議員の言論の自由は保障されるべきだ」(自民党幹部、北海道新聞5月17日朝刊)。


そういえば安倍晋三首相も言っていました。ことし、「悪夢のような民主党政権」と自民党大会で演説して批判されたとき。まだありました。2014年の衆院選の際に、民放テレビが放送した「まちの声」が偏っているとクレームをつけて批判されたとき。何と国会で(!)言論の自由と胸を張ったのです。
「自由」「民主」が聞いてあきれる。この総裁にしてこの幹部あり、ということでしょうか。

問題の議員は自民党ではありませんが、東京大学を出て国家公務員上級試験にも合格したエリートだそうです。しかし、民主主義や市民の自由については、何も学んでこなかったのですね。そんな人間を選挙で担いだ政党も政党だ。

国会議員は、「統治される者」の代表として統治機構をチェックするのが仕事です。そのために権限も立場も保証されている。他に権限のない市民の「宝物」である「言論の自由」を持ち出すのはまったくおかしいのです。
この人物が国会議員としてすべきことは、領土問題の歴史・現状を学び、国際条約を学び、政府の対応の是非を研究し、その成果を国会の場で開陳し、「統治する者」である政府を動かしたり、国民の共感を得たりすることです。

立場をわきまえず、自分勝手な思い込みを、しかも酔っぱらってわめきたてるのは「言論の自由」で保護されるべきことではない。

領土問題に戦争を持ち出すことがあまりに愚かなので陰に隠れてしまいそうですが、大切な「言論の自由」を拡大利用させないことにも、しっかりと目を光らせたい。
こういう人に限って、自分の気に入らない表現活動を抑え込もうとする危険が大きいものです。