日常生活で元号を使うことはまずありません。


ですから、「平成最後」などと浮かれる気持ちにはなれませんし、新しい元号をめぐってフィーバーのような状況になっていることには、違和感を覚えます。なにしろ、あまのじゃくですから。

 

わたしも一定の年齢になるまでは、基本的に元号を使っていました。日本中がそうでしたから。

しかし、新聞記者になって、初めて海外出張を経験し、取材相手に元号で年を伝えようとした自分に愕然としたことを鮮明に覚えています。いまにして思えば、実に愚かでした。

 

以来、西暦を基本にしています。

 

平成時代になり、元号の相対化は相当進んだ(存在感が薄れた)と思います。その平成もまもなく終わります。さらに相対化は進むでしょう。それは良いことではないか。

 

新しい元号は、おおむね歓迎されているようです。

でも、疑問はぬぐえません。

「令」の意味は本当に「よい」「めでたい」が代表なのか。漢和辞典を調べても、その意味が出てくるのはずっと後の方です。付け足しレベルといってもいい。

日常、良い意味で使われるのは「令息」「令嬢」「令夫人」が代表格でしょう。これは、単なる敬語であって、本当にその息子がイケメンで、そのお嬢さんや奥さんが美人で性格もいいことを知っていて使う人は少ないのでは。

 

考案したとされる万葉集研究者が、メディアに頻繁に登場して、新しい元号の「美しさ」を説明しています。その研究は尊いとわたしも思います。

でも、これは、オリンピック選手や元選手がオリンピックを礼賛するのと変わりはない。選手のみなさんの努力を讃えることは人後に落ちないつもりですが、オリンピックの負の側面を、こういう人たちが指摘することはまずありません。

 

学者の間にも異論はあるようです。

これは中国思想史の専門家ですが、東大の小島毅教授は「令」は「れい」ではなく「りょう」と読むべきではないか、と指摘したり、出典の「梅花の歌」は「咲き誇る花ではなく落ちゆく花。縁起がいいと思う人は少ないのでは」と言っているのが気になります(朝日新聞、日付は失念)。

 

元号は改元後にはその時代の天皇の「名前」になります。「明治天皇」「昭和天皇」というように。それだけに、時の政府が自分の思いを込めすぎず、中立的に選ばれてきたのですね。その点でも、今回の改元で時の首相がずいぶんはしゃいでいたように見えたのは、ちょっと恥ずかしいようでもある。間近な選挙や自分の支持率に有利に利用しようとしたと勘繰られても仕方がないでしょう。実際、勘繰りではないかもしれないし。

 

東大史料編纂所の本郷和人教授のインタビューも紹介しましょう。

<本郷さんは「令旨」という言葉を挙げて、令は皇太子につきものの漢字でもあると解説してくれた。「令旨とは、皇太子の命令を言います。学問的に見れば、令という字のついた天皇なんて、皇太子殿下に失礼ではないですか」(略)「家令という言葉がありますが、令は律令に規定のある役人であり、使用人です。それを元号に入れるとは」(略)「安倍首相に皇太子殿下を侮辱しようという意図があったとは思いませんが、周りの学者は何をしているのかと。気が付いていないなら学者として失格だし、気が付いていて言わないなら、それこそ最大のそんたくですよ」>(毎日新聞、416日付)。

 

天皇の在位と元号が結びついたのは一時の政治的判断で歴史が浅いこと、万葉集が戦争に利用された事実など、根本的な問題は言うにおよばず、これだけの疑問があるのであれば、使わなくても済む新しい元号はなるべく使わずにおこう、と思う人がいても不思議ではないように、わたしには思われます。

そんなことを思わせた今回の元号の選択、発表のあり方の是非は後世どう語られるのでしょうか。それこそ歴史が審判を下すのでしょう。