芸事には「型」があります。


「型」が身についていなければ、ただの「かたなし」。


「型」をなぞるだけでは「かたどおり」。


「型」を身に着けたうえで、それを超える。そこで初めて、誉め言葉としての「かたやぶり」に到達できる―とは、多くの師匠たちのいう言葉です。



5月13日に開かれた道新寄席。新作落語の巨匠、三遊亭円丈師匠の落語は、まさに「型破り」でした。
十八番の「グリコ少年」では、大詰めにキャラメルを取りだして客席にまいたり、最後は舞台を降りて客席通路を「300メートル」走って退場する、という具合。


しかし、最大の「型破り」は、高座に書見台を持ち込み、「台本」を確かめながら噺を進めていったことでしょう。もちろん、ただのカンニングではなく、目を台本に移すたびに笑いをとる一言を発するのです。


落語家修業は、まず古典落語をたくさん覚えることから始まります。真打ちともなれば50以上の演目を自在に操ります。
「見ながら語る」では、バーテンダーがレシピを見ながらカクテルをつくるようなもので、落語じゃない、と言われそうです。


それをやっちゃう。
それも、やっちゃうこと自体で笑いを取る。
ほかの噺家さんではなかなか許されないかもしれません。



音楽の世界でも同じことがあります。譜面を見るか見ないか、です。
ソリストは、リサイタルや協奏曲で独奏する場合は通常、暗譜で演奏します。室内楽などアンサンブルでは、逆に全員が譜面を見ます。

ピアノの巨匠で、ソロなのに堂々と譜面を見ていたのは、ロシアのリヒテル(1915-1997)でした。
ほかに、今も指揮にピアノに大活躍中のバレンボイム(1942-)も時には譜面を見たことを、青柳いずみこさんの「ピアニストの祝祭」(中央公論社)に教えられました。
2005年2月の東京・サントリーホールでのリサイタル。プログラムはバッハの「平均律クラヴィア曲集」全曲だったそうです。
青柳さんは書きます。
「彼が譜面を携えて出てきたのを見て少しほっとした。複雑な対位法的書法を駆使したバッハの『平均律』ほど覚えるのが難しい音楽もない。試験やコンクールのときの恐怖が心と身体に染みついている。若いころはそれでもなんとか弾いて帰ってくるが、年をとるにつれて記憶力が減退し、困難さは増す。多くの演奏家が中年過ぎから室内楽の活動を増やすのも、室内楽なら楽譜を見て弾けるからだ」


「そら」で話せる、弾けるくらいに台本や譜面を読み込まなければ、作品を理解したとは言えない。それは正論でしょうが、それができないなら舞台に上るな、というのも極論のような気がします。

最後は、舞台に立つ人の美学であり、芸に触れたいと思う観衆・聴衆のこだわりに任せるのがいいのかもしれません。



道新寄席に話題を戻します。
2011年から始まった道新寄席は、ほぼ月1回の開催を続け、ことしめでたく第100回を迎えます。実力本位で出演者を選び、いまでは噺家さんの方から「ぜひ道新寄席に呼んで」といわれるほどになりました。
記念すべき第100回は7月6日(金)道新ホールで開かれます。通常より枠を拡大し午後4時に開演。前半は若手や講談師による「江戸寄席ごよみ」、後半(午後7時からの予定)は柳亭市馬師匠の独演会という構成です。途中休憩を入れてたっぷり6時間余、寄席の雰囲気も楽しんでいただきます。

ブログ道新寄席_edited-1

(詳細は写真のチラシをご覧ください)


チケットは4500円。好評をいただいているので、道新プレイガイドでお早目の購入をお勧めします。このブログのタイトルは「見るか、見ないか」ですが、これは「見るしかない」と思いますよ。