芸術の秋たけなわです。
わたしは仕事上でも趣味でも、味わうべき催し、展示が次々と押し寄せて、うれしい悲鳴といったところですが、みなさんはいかがでしょうか。
そんな秋に、降ってわいたような選挙で、世の中は騒然としています。
わたしたちの生き方に大きくかかわる選択の機会ですから、有権者としてしっかりと取り組まなければならないところですが、思わずこう言いたくなります。
「芸術の秋に、なんと無粋な」
10月5日の朝日新聞都内版に目が留まりました。平田オリザさんが書いています。
<マスコミが「小池劇場」「劇場型政治」と呼ぶことに憤りを感じます。劇場は市民が集い、作品について「対話」し、考えを深める場です。いまの政治家がしているのは、それとは全く違い、目先の視聴率を競う「テレビ型政治」です>
劇作家ならではの視点ですが、いいこと言うなあ。
政党や立候補予定者には、「無粋」と言われないようにしっかりと有権者と対話してもらいたいものです。
それにしても、解散を仕掛けた側も受けて立つ側も、今まで見たことがないほど劣化していると感じるのはわたしだけでしょうか。
あけすけな「自己保身」のにおいがぷんぷんするからです。
根本的な疑問があります。
選挙でその思いを伝えることができるのかどうか。
選挙は、わたしたちとは全く離れたところで「出したい政党」が選んだ人や「出たい個人」の顔のなかから一人を選ぶ制度です。
民主主義の最も大事な手続き、と言われながら、実は有権者にとってこれほど制約の多い、隔靴掻痒の仕組みはありません。
そうかといって、それに代わる仕組みはなかなかありません。
結局、有権者は一生懸命情報を仕入れて「最善の(またはよりましな)1票」を投じるしかない。
そうであればこそ政治家は、自分はそんな制約のなかで選ばれた代表であることを自覚することが必要でしょう。わたしはそれを「民意に対する畏れ」と言い換えたい。
選挙で多数を得たから何をやってもいい、というのは最も避けるべき態度です。
そんなことを言いそうな候補者を見抜く、そんなことを何度もやってきた人には騙されないようにする、そんな選挙にしたいとわたしは思うのですが。
ところで、「テレビ型」選挙と言われて、テレビの人たちはどう感じるのかも気になります。
テレビだってマスコミの重要なプレーヤー。「しょせんテレビ」といわれることに反発してほしい。テレビを通じて「劇場」を再現することも可能なはずです。