2021年01月

アイヌの謎が夢を繋ぐ

松前藩家老・蠣崎波響の筆になるアイヌ肖像画の連作「夷酋列像」は「松前の宝」と称されてきました。長く行方不明だったその「宝」が、フランス東部のブザンソン美術館に眠っていたことが明らかになったのは1984年のことです。あまりの突然の出来事にナゾは深まるばかり。日本は勿論、フランス側でもナゾを解く調査・研究が行われてきたのです。


ブザンソン大通り
写真1(ブザンソンの歴史を映すグラン・リュ=大通り=。時の流れにまどろむようです)


前回、わたしが「犯人」の一人に想定したメルメ・カション神父もその調査対象に浮上し、興味深い新事実が明らかになったと書きました。どんなことが明らかになったのでしょう。


メルメ神父は1828年、ブザンソン郊外のブーシュウ村に生まれ育ちました。24歳でパリに出て宣教師を養成する外国宣教会神学校に入学します。ここで司祭(神父)の資格を得たことで、日本への伝道の旅が始まります。初めて足を踏み入れた琉球で日本語をマスターし、江戸で宣教師兼通訳として活躍。箱館には1859年から4年間滞在して、カトリック元町教会を建立したことも紹介しました。


一方で、ブザンソン美術館に目を向けると、「夷酋列像」が収蔵目録に掲載されたのは1933年でした。美術館には地元の篤志家から美術品が寄贈されることがあります。寄贈者は美術館の寄贈者リストに名を刻み、後世に名を残すことになります。実は、調査の結果、メルメ神父とパリの神学校で共に学んだ宣教師の兄弟が、ブザンソン美術館の寄贈者リストに名前を残していることが判明しました。しかもこの兄弟はブザンソン出身でした!



ブザンソン美術館
写真2(「夷酋列像」が長く眠り続けてきたブザンソン美術館。いつ、だれが、どのように?)


これは何を意味するのでしょうか。推測の域はでませんが、メルメ神父が夷酋列像を松前から持ち返ったと仮定して、それを神学校で学んだ同郷の同窓生に託したのではないか。何らかの理由で、正式な寄贈手続きを経ることなく、美術館の屋根裏部屋に持ち込まれて放置されたのでは? きちんとした手続きを取らなかったのは、「盗品」だったからか…。再び、いくつもの疑問が沸いてきます。


美術館では、当時の館長自ら、神父の生地を訪れ、縁者を探し、足跡を伝えるものを徹底的に調べ上げたといいますが、結局、徒労に終わったといいます。


メルメ神父は箱館から江戸へ。宣教会の許可を得ないまま突如帰国しました。なぜ逃げるように日本を去ったのでしょう。パリ万博で通訳として活躍したのを最後に音信は途絶え、神父の職を捨てて南仏で死んだのはなぜでしょう。神父が生まれたような田舎では、聖職を捨てるのは神を冒涜する行為であり、村にとっても一族にとっても恥ずべき人間として、記録からも抹消されたのではないか。生地に彼の痕跡が何も残っていない理由を、ブザンソン美術館の関係者はこう推測します。


蝦夷地とアイヌ、ブザンソン。この3点を結ぶ有力な接点の追跡は中断し、ナゾの中に沈んでいきました。「夷酋列像」を描いた蠣崎波響も実に謎の多い人物です。彼自身、人生において二度と、アイヌ民族を描くことはありませんでした。これも永遠の謎です。


ブザンソン街並み
写真3(中世期から続く古都ブザンソンの旧市街。レンガ造りの街並みが印象的です)


夷酋列像に端を発し、蝦夷地とフランスを繋ぐ長い旅を続けてきました。なぜ夷酋列像はフランスの地方都市ブザンソンで発見されたのか。だれが作品を持ち出したのか。12枚ある肖像のうち1枚(イコリカヤリ)だけが欠落しているのはなぜなのか。その1枚はどうなったのか(日本で紛失したのか、それともフランスに渡ってから失われたのか?) ナゾは果てしなく続きます。このナゾは解き明かされないかもしれません。しかし、アイヌの肖像画がわたしたちに大きな夢を与えてくれたと考えれば、永遠の楽しみと希望が保てます。


いまから6年前の2015年、北海道開拓記念館(札幌市厚別区)が「北海道博物館」と名称を変えてリニューアルオープンしました。その記念特別展として、ブザンソン美術館の「夷酋列像~蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界」と題した、大掛かりな展覧会が開かれました。その盛況ぶりは、夷酋列像に寄せる道民の深い思いを映しているようでした。


夷酋列像
写真4(北海道博物館の新装オープンを記念して「夷酋列像」の特別展が開かれました)


会場には、ブザンソンから11点の“本物の夷酋列像”が並びました。わたしも、現地で初めて「対面」して以来、実に20年ぶりに作品の前に立ちました。鮮やかな色彩と微細な線に及ぶ見事な写実性に息を飲みます。描かれたアイヌの長老たちの深い知性、勇気をたたえる風格、和人に虐げられてきた民族としての悲しみ…。思わず涙腺が緩んだことが忘れられません。


今回で終えようとした夷酋列像を巡る旅。少し書き残した感があり、もう1回頂いて、締め括ろうと思います。

神父と列像を結ぶ点と線

江戸末期の日本とフランスを股にかけ、驚異の語学力を武器に聖職者として、通訳として活躍した神父メルメ・カション。前回、このメルメ神父の人生を振り返り、蠣崎波響の名画「夷酋列像」をフランスに持ち去ったのではないか…こんな推理をしてみました。

函館山の麓に広がる西部地区は、多くの観光客を魅了してやまない人気スポットです。異国情緒漂う景観を醸し出しているのは教会の存在でしょう。ハリストス正教会と並んでこの地区の代名詞になっているのがカトリック元町教会です。この教会を創設し初代神父に就いたのがメルメだったことはお話ししました。


函館西部地区
写真1(函館山の麓に広がる西部地区。異国情緒漂う観光客の人気スポットです)


メルメ神父が幕末の箱館に滞在したのは1859年から63年までの4年間でした。その間、日仏辞典の編纂とともに、アイヌ民族にも強い関心を寄せ、「アイヌ小辞典」を編集しました。エキゾチックなアイヌ文化に魅せられたのでしょうか。異文化との出会いは神父のその後の人生にどんな変化をもたらしたのでしょう。

神父は突如、箱館を立ち去ります。江戸に戻り、駐日フランス公使の公式通訳の職を得たのも束の間、宣教会の許可を受けないまま、再び、忽然と母国へ帰国します。なぜでしょう? パリ万博の会場で、幕府の代表団とナポレオン3世との通訳を務めたのを最後に、ぷっつりと消息を絶ったのはなぜでしょう。神父の職をかなぐり捨て、なぜ南仏に向かい、ニース(あるいはカンヌ)で死んだのでしょう。



そして、蠣崎波響のアイヌ指導者の連作「夷酋列像」を、果たして神父は持ち出したのでしょうか? ここが今回、お話ししなければならない核心部分です。



わたしは、この人の話に耳を傾けようと思います。この人とは……。メルメ神父の来日から100年後の1953年。カトリックの宣教者としてフランスから日本に派遣され、神父の創設した函館のカトリック元町教会主任司祭に就任したグロード神父です。


グロード神父
写真2(献身的な活動で函館に生涯を捧げたグロード神父。穏やかな笑顔が忘れられません)


函館や道南で暮らしたことのある人にとって「グロード神父」の名前を聞いたことのない人はいないでしょう。聖職者としての献身的な活動だけではなく、社会福祉事業に情熱を傾け、恵まれない子どもたちから高齢者、病を抱えた人たちに至るまで、すべての人々が共生する社会の実現に力を尽くしました。五稜郭公園を舞台にした壮大な野外劇の開催にも奔走し、北海道新聞社会文化賞、フランス政府からは「レジオン・ドヌール勲章」を授けられました。

神父は2012年に85歳で逝去しましたが、蠣崎波響の「夷酋列像」がなぜ、フランス・ブザンソンで見つかったのか。同じフランス人神父として生前、大きな関心を寄せていました。メルメ神父の関与についても見解を示していましたので、紹介したいと思います。


夷酋列像展
写真3(夷酋列像をめぐるナゾは時を経て、解明されるどころか深まるばかりです)

残念ですが、グロード神父はメルメ・カション神父が「夷酋列像」をフランスに持ち帰ったかどうかについては「正直分からない」と答えています。そのうえで、こんなことを語っていました。「夷酋列像はブザンソンの美術館の屋根裏に放置された状態で見つかりました。当時は、この作品が偉大なものなのか、そうでないのか、理解する人がいなかったのです。そして、大事なことは、美術館がこの作品(夷酋列像)を購入したのではないことです」

幕末の箱館・松前の状況についても触れています。「当時は日本の美術品ならフランス人は何でも買いました。一方、松前藩は江戸から強い圧力を受けていて、財政的にも苦しく、売れるものは何でも売っていました。とりわけ箱館戦争で松前藩は大混乱に陥り、松前の宝である夷酋列像もこうした混乱の中で散逸していったのでは…」。グロード神父の話の中で最も重要な点は、ブザンソンの美術館で「夷酋列像」を購入した事実はないという部分です。

「夷酋列像」がブザンソンで発見された―。北海道新聞パリ特派員だった浜地隼男さんが1面トップで報じたのが1984年でした。実は、ブザンソン美術館の調査によると、「夷酋列像」は、この美術館で全収蔵品の調査が行われた1933年、収蔵目録に掲載されました。ただ、美術館の屋根裏にいつから置かれていたのかははっきり分かりません。しかも、この調査の後、さらに51年間にわたって見向きもされず眠り続けたのです!


ブザンソン美術館
写真4(夷酋列像はいつからここにあるのか。ナゾを秘めたブザンソン美術館)


地方美術館としては屈指の質と量を誇るブザンソン美術館ですが、東洋美術の価値を見極める学芸員はおらず、グロード神父の言う通り、「松前の宝」は放置され続けたのです。しかし、ブザンソン側でもナゾを解く調査・研究が繰り広げられてきました。わたしにとってうれしいことに、メルメ神父も調査対象に浮上し、いくつかの興味深い新事実が明らかになりました。次回はそれを端緒に、「夷酋列像」を巡る長い旅を締めくくりたいと思います。

怪僧と呼ばれたメルメ神父

メルメ・カション。多くの人はこの神父の名前を初めて耳にすることでしょう。
彼こそが、蠣崎波響の名画「夷酋列像」を松前からフランス東部のブザンソンに運び去ったのでは…。わたしが勝手に目を着けている人物です。


メルメ神父は1859年から4年間、幕末の箱館に滞在しました。実にナゾの多い人物ですが、まずは、ざっと、その経歴をたどってみる必要があります。波乱万丈とは月並みな表現です。野心あふれる語学の天才、すばしっこくて神出鬼没。まるで怪盗ルパンのよう…。こんな人物を思い描きながら見てみましょう。


メルメカション
写真1(メルメ神父の貴重な写真です。来日前のパリで撮影されたものです)


神父は1828年、フランス東部ブザンソン郊外の小さな村レ・ブーシュウに生まれました。ブザンソン郊外です! これについては、のちほどお話ししましょう。1852年、24歳でパリに出て、宣教師を養成する外国宣教会神学校の門を叩きます。その2年後、司祭(神父)に。新たな人生の幕開けでした。


パリ宣教会本部
写真2(パリ7区バック通り128番地にある外国宣教会。メルメ神父もここで学びました)

みなさん宣教師というとだれを想像しますか。1549年、日本にキリスト教を初めて伝えたフランシスコ・ザビエルでしょうか。ザビエルはスペイン人ですが、パリで仲間とともにイエズス会を設立し宣教師となります。時代が変わっても、その役割は同じ。カトリック信者の獲得、拡大こそが天命です。地球の果てまでイッテQ…とばかり、どんな苦難も乗り越えて、前へと突き進む。これこそ宣教師です!

1850年代の日本を想像してみてください。徳川幕府の衰えを見透かすかのように、開国を求める海外の圧力が一気に強まります。1853年のペリー来航、翌年の日米和親条約締結。下田と箱館が開港されたことで、1639年から200年以上も続いた鎖国政策は崩壊します。イギリス、フランス、ロシア、オランダ…。欧州列強との間で日本にとって極めて不利な不平等な条約が次々と締結されていきました。

メルメ神父がフランス商船リヨン号に乗り込んで当時の琉球王国に着いたのは1855年。まだ日仏間に修好通商条約は結ばれていませんが、日本はすでに鎖国のたがが外れ、外国勢力の草刈り場と化します。キリスト教の流入も阻止できぬほどに弱体化していたのです。

神父は琉球滞在中に日本語を完璧にマスターしました。すごい語学能力です。1858年に日仏修好通商条約が締結された際は、フランス政府の公式通訳に採用され、調印の現場に立ち会います。幕府の外国奉行だった水野忠徳をして、あまりに流暢な日本語に「これほど驚いたことはない」と語らせるほどの、見事な日本語使いだったのです!

そして、いよいよ北海道との出会いが訪れます。1859年、“本業”の宣教師として箱館へ。現在の函館西部地区の一角に土地を購入して教会を建てます。これが現在のカトリック元町教会で、その初代神父に就任しました。箱館にはその後、4年間滞在しますが、布教の傍ら、フランス語の語学学校を開校。病院建設も計画したといわれます。


カトリック元町教会
写真3(函館西部地区にあるカトリック元町教会。メルメ神父によって建立されました)

得意の語学力を生かして「英仏和辞典」や「宣教師用会話集」を編纂したほか、アイヌ民族への特別の関心から「アイヌ語小辞典」の編集も試みました。まさに「異才」(マルチ・タレント)の持ち主だったのです。

北海道で暮らした4年間。アイヌ文化に親しんだ神父は、松前藩との関係も深めたとされます。もし「夷酋列像」の存在を知ったなら……。当時、彼が残した書簡の中に「大変に貴重なものを頂きました」といった記述が見受けられます。「大変貴重なもの」とは一体何を指すのでしょう。貴重なものは誰から頂いたのでしょう。これも判然としませんが、「貴重なもの」を「夷酋列像」に置き換えてみて、松前藩の秘宝である「列像」を、素性の怪しい外国人宣教師に手渡すことなどありうるのか? 常識的にいえば「否」です。

神父は1863年、突然、箱館を離れて上京します。語学力を売り物に“就活”に励み、手に入れたのが、初代駐日フランス公使の通訳のポスト! 江戸駒込の寺の娘(メリンスお梶)と同棲していたとの記録も残ります。しかも、これで終わらないのが“怪僧”の異名を取る聖職者! 舞台は1867年にパリで開催された万国博覧会。日本は将軍の名代として徳川昭武を送り込みますが、パリの万博会場でナポレオン3世と昭武の日仏会談の場に、同時通訳として居合わせたのが…そう、メルメ神父だったのです。


パリ万博
写真4(パリ万博に列席した徳川昭武=左から2人目=。メルメ神父が通訳を務めました)


パリ万博を最後に消息は途絶えます。神父の職を捨て、1889年に南仏ニースで死んだらしい…と。幕末の日本とフランスを股にかけて駆け抜けた、あっぱれな人生でした!

波響とスタンダールを結ぶ糸

1週間ほどの年末年始の休暇をみなさんはどのように過ごされましたか。静かに穏やかに。コロナウィルスの感染拡大が収まらず、日常生活の「行動変容」を迫られているわたしたちにとって、かつて経験したことのない、重苦しい年の幕開けとなりました。


もし、「コロナの恵み」があるとすれば…。読書の時間が増え、知的な思索を楽しむ喜びに触れられたことかもしれません。


わたしは、書棚からかつて読んだフランスの小説家スタンダールの名作「赤と黒」(小林正訳、新潮文庫)を取り出し通読しました。以前にお話しした通り、スタンダールはフランス東部、スイス国境に近いブザンソンの出身です。「赤と黒」の舞台にこのまちを選んだのは、作家の生まれ故郷に寄せる思いがあったからでしょう。



スタンダール
写真1(スタンダールはペンネームで、本名はマリ・アンリ・ベール。1783~1842年)

わたしが、この作品の再読を思い立った理由は? 松前藩家老・蠣崎波響が描いたアイヌ長老の肖像画の連作「夷酋列像」が海を渡り、1万㌔も離れたここ、ブザンソンの美術館で見つかったから。ブザンソンという都市には、他のフランスのまちとは異なる、不思議な思いが沸き起こるからにほかなりません。



ブザンソン
写真2(美しいまち並みで知られるブザンソン。中世から繁栄を続けてきました)



スタンダールはこう書きます。

「ブザンソンは単にフランスでもいちばん美しい都会の一つであるばかりでなく、勇気のある人間や、才知のある人間がたくさんいる」


これは主人公のジュリアン・ソレルが、ブザンソンを初めて訪れたくだりです。



赤と黒
写真3(「赤と黒」はスタンダールの代表作。生まれ故郷のブザンソンが舞台です)


19世紀初頭のブザンソンは、かつてない繁栄を謳歌し、フランス東部、スイス国境に近い地方の中心として文化的にも爛熟期を迎えていました。波響が描いた幻の「夷酋列像」が、「赤と黒」の舞台であるブザンソンへ運ばれてきたのは、いつのことだったのか。誰が、どのような方法で。


夷酋列像の話を始めてはや10回目となります。波響の名画「夷酋列像」全12枚のうち11枚がブザンソン美術館で発見されたのはいまから37年前の1984年のこと。さまざまな調査の結果、波響唯一の原画であることが確認されたものの、この作品がなぜブザンソンにあるのか。最大のナゾはいまだに解明さていないのです。


そこで、わたしは前回と前々回、その謎解きとして、旧幕府軍とともに箱館戦争を戦ったフランス人ジュール・ブリュネが略奪に関与したのではないかと書きました。しかし、その推理もブリュネの孫への取材で消え失せた…。ここまでが前回の展開でした。では、疑わしきは誰なのか。さらなる推理を繰り広げてみましょう。


「第2部」に入る前に…冒頭、わたしはスタンダールの「赤と黒」を正月休みに読んだことを紹介しましたが、この本を再読しながら、スタンダールと蠣崎波響に不思議な縁を感じたことを記しておきます。「赤と黒」は王政復古という、ナポレオン失脚後の反動的な時代を背景にした政治小説です。1842年に59歳で世を去ったスタンダールは、フランス革命にはじまり、王政、帝政が繰り返された極めて不安定な19世紀フランスの証言者の一人でした。


一方、蠣崎波響はスタンダールとほぼ同時代、日本の最北端で生きました。武士として、画家として、政治家として。徳川幕府の長期政権に陰りが生じ、鎖国を解く海外諸国の動きが強まる中、歴史に消えた「蝦夷地の輝かしい時代」を絵画の世界に定着させ、後世に残したのです。このストーリーの中でも触れた「蝦夷錦」のまばゆい美しさを記録にとどめたのがまさに波響でした。


蝦夷地の画家とフランスの文豪。2人が不思議な糸で結ばれる運命にあったとしたら…これも歴史の偶然であり、必然だったのでしょうか。


先を急ぎましょう。ジュール・ブリュネに続いて、わたしの脳裏に「夷酋列像」の略奪者として浮かんだのは…。1859年から4年間、幕末の箱館に滞在した当時30代前半のフランス人神父です。名前をメルメ・カションといいます。


メルメカション
写真4(幕末に来日した神父メルメ・カションです。悪徳商人の役割を果たしたとの評判も)


この神父はどんな人物だったのでしょう。なぜ、カションが怪しいのでしょうか。次回、お話したいと思います。

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