2020年11月

松前藩が最も信頼した男

この写真を見て、どこか分かりますか?長~~いノーズ、流線形の車体が旅情を誘います。北海道新幹線の北のターミナル・新函館北斗駅です。


北海道新幹線
写真1(2016年3月に開業した新函館北斗駅。車体の鮮やかな紫色のラインが特徴です)

みなさん、新幹線で陸路、東京方面へ旅したことがありますか? わたしは3年前に一度、東京から新函館北斗駅に向けて利用しました。東京駅から4時間半。東北の都市をめぐり、車窓の景色を眺めながら、青函トンネルを超えるとまもなく到着です。飛行機では味わえない鉄路の旅を満喫しました。2030年の札幌延伸が待ち遠しいですね。

突然、北海道新幹線のお話をしたのには訳があります。新函館北斗駅に着いて、在来線に乗り換えようと2階の連絡通路を歩いていたわたしは、思わず壁面に目が留まりました。蠣崎波響作「夷酋列像」の陶板壁画が飾ってあったからです。陶板は、縦約3㍍、横約4㍍。フランス東部の地方都市ブザンソンで見つかった夷酋列像の原画をもとに、11人のアイヌの指導者たちの雄姿が見事に再現されていました。


新函館北斗駅
写真2(新函館北斗駅の連絡通路に飾られた夷酋列像の陶板。思わず目が留まります)

北海道を訪れる人たちにアイヌ文化を紹介しよう。こんな思いから、渡島・檜山地方のロータリークラブが合同で寄贈したとの説明があります。東京の専門業者に依頼し、特殊技術で焼き付けた陶板の制作には約150万円かかったそうです。波響はこの列像を松前で描いていますから、ここ道南はまさに夷酋列像の発祥の地。㏚効果は抜群です。

話が少し逸れました。前回と前々回の2回にわたり、列像の中からアッケシ(厚岸)のイコトイとクナシリ(国後)のツキノエを紹介しました。今回は3人目。ノッカマップ(根室)のションコについてお話ししましょう。


ションコ
写真3(根室の首長だったションコです。色彩が抑制されており全体の印象は地味です)

ションコは11人の中で最も目立たない存在だと思われがちです。少し猫背で、顔も横向き。イコトイやツキノエの迫力あふれる表情に比べていかにも地味な印象を持ちます。羽織っている衣装も黒が基調で、赤色が強烈な2人よりぐっと落ち着いて見えます。しかし、研究者によると、鋭い目つきでこちらをちらりと睨みつけるションコは、身体の筋肉の立体感といい、ち密な描写といい、11人の中で最も質感豊かだというのです。

今回、ションコを取り上げたのは、もうひとつ理由が…。2年ほど前、わたしはションコの存在に光を当てた新聞記事を目にしてから、その名前がずっと忘れられずにいたからです。記事は2018年1月23日付の北海道新聞(第3社会面)に掲載されました。内容はおおむね次のようなものでした。

<「江戸時代の1778年(安永7年)、松前藩が道東のアイヌ民族の有力者に宛てた文書が、ロシア・サンクトペテルブルクの国立図書館に保存されているのを、東京大学資料編纂所などのチームが発見した。松前藩がアイヌに送った文書としては最古の原本とみられ、松前藩のアイヌ政策を知るうえで貴重な資料となる>=前文=

本文を読み進めると……。<この文書は、松前藩がノッカマップ(現在の根室市)のアイヌ民族の有力者ションコに宛てたもので、①喧嘩・口論の禁止②アイヌと和人が交易で使う小屋の火の元の注意③和人の漂着船への救助と介抱④和人の漂流民を和人の滞在地まで送り届ける指示---の4か条で構成。順守しなかった場合は厳しい処分を科すと記されている>


ロシア書簡
写真4(ロシア・サンクトペテルブルクの国立図書館で発見された松前藩の文書です)

文書が発出されたのは、道東のアイヌ民族が蜂起したクナシリ・メナシの乱(1789年)の11年前。松前藩はすでにこの時期、道東地方のアイヌに対する支配を強めていたことがこの文書から明らかです。この中で、わたしが注目したのは、藩の重要な文書の宛先が「ションコ」だったという事実です。夷酋列像に描かれたションコの肖像画は地味ですが、松前藩が道東の首長の中で最も信頼を置いていた人物、それはションコだったのではないか! こんな推測が成り立ちます。

貴重な文書がロシア・サンクトペテルブルグの国立図書館で発見されたというのもミステリーですが、これは道東のアイヌの人たちが交易を通じていかにロシアと密接に結びついていたかを裏付ける手がかりとも言えます。ロシアと北海道は古くから交流が深かった。しかも、道東の島々が、もともとアイヌの人たちの生活の拠点であったことも、この文書は示しているのです。

いま一度、ションコの足元に注目してください。彼が履いているのは大陸から伝わった革靴です。これこそが、極東に存在した「北のシルクロード」を裏付ける証しです。フランス・ブザンソンと極東を繋ぐロマンの旅をもう少し続けましょう。

精緻な筆遣いと技量の高さ

フランスの地方都市ブザンソンで発見されたアイヌの肖像画「夷酋列像」の中から、前回はアッケシ(厚岸)の首長だったイコトイを紹介しました。列像の中で最年少。立派な髭を蓄え、堂々とした体躯を誇る若き指導者です。

纏っている豪華な衣装は蝦夷錦と呼ばれる絹織物であることもお話ししました。これらはアイヌがロシアや中国との交易によって手に入れたものです。イコトイは蝦夷錦の上に西洋の服と思われる赤色の薄い上着を羽織っています。この衣装は、交易を通じてヨーロッパからもたらされたものです。蝦夷地は最果ての地ではなく、実は最先端の文化の発信地だった! こんな想像が成り立ちます。

そして、今回、2人目として紹介するのが「ツキノエ」です。
記録によると、ツキノエは国後島トウブイの首長で、1770年にロシア人が得撫(ウルップ)島に到来してアイヌを襲撃した際、アッケシの首長をイコトイに譲ってクナシリに赴き、ロシア人を征伐したと伝えられています。ロシアにもその名を轟かせたアイヌの英雄といってよいでしょう。


ツキノエ顔
写真1(クナシリ・メナシの乱の鎮定に最も貢献したのが長老ツキノエです)

絵を見て下さい。長身で腕力が強く、眉目秀麗! 波響の筆致にも自ずと力が漲っています。面構えは全く老いを感じさせません。ツキノエは生没年が不詳とされますが、クナシリ・メナシの戦いが起きた時、すでに70歳を超えていたと言われています。反乱を鎮静化しようと多くのアイヌを説得して歩くなど、収束に最も貢献した一人です。長い人生経験に裏打ちされた老獪さ…でしょうか。目をぎょろりと開けたその表情からは、得も言えぬ風格が漂います。

ツキノエは長いひげを蓄え、木彫りの椅子に腰かけていますが、その姿は、「三国志」で有名な中国の武将「関羽」を想起させると研究者たちは指摘します。みなさんはいかがでしょうか。しかし、息子のセッパヤは戦いを起こした首謀者の一人で、松前藩に身柄を拘束されて処刑されました。息子の犠牲と引き換えに実現した和平…。こう考えると、ツキノエの人生の別の側面が浮かび上がります。

この作品を前にして、わたしは蠣崎波響の精緻な筆遣いに驚きました。風貌の写実性と色彩感覚あふれる美しさ。その表情とポーズにも限りない魅力を感じたのです。


ツキノエ細部
写真2(ツキノエの右手細部。手を覆う毛の一本一本に至るまで精緻な筆遣いが伝わります)

アイヌの首長たちは日常的にこんな衣装を身に付けていたのか。研究者の間でこんな疑問が呈されました。結論は…波響が肖像を描くにあたって、松前藩に依頼して所蔵の衣装を着用させたのではないか、というのです。ただ、これほど原色を使った色遣いと大胆な構図は、日本固有の絵画の手法とは明らかに異なります。「エキゾチック」の言葉がぴったりです。

アイヌの人たちはこの衣装をロシアや中国との交易によって手に入れていたと書きました。この交易ルートは現在、「北のシルクロード」と呼ばれています。詳細については、次回、お話ししようと思います。アイヌというとみなさん、狩猟生活のイメージを強く抱かれるかもしれませんが、実は外国との経済活動に才覚を発揮していたことを覚えておきましょう。アイヌは決して貧しくはなかったことを!


ツキノエたこ
写真3(独特の表情のツキノエはタコの絵柄に使われるなど人気のキャラクターです)

前回紹介した立ち姿のイコトイは手に槍を持っていました。一方、ツキノエはどっしりと椅子に腰かけており、左手には短剣を所持しています。夷酋列像で描かれた12人(ブザンソンで発見されたのは11人)はそれぞれ、弓や槍や剣を手にし、鳥やシカ、クマなども描かれていて、当時のアイヌの人たちの日常の一端が見えてきます。波響の観察力の鋭さに加え、民族資料の観点からも高い価値を保っています。興味が尽きません。

波響が描いた12人はクナシリ・メナシの乱が勃発した1789年当時、どこで活躍していた人物なのか。一目で分かるイラストを見つけました! ここに掲載します。


12人の拠点
写真4(アイヌの人々は北方領土を含む道東各地に拠点を置き、交易を拡大していました)

叛乱の震源地となったメナシ・クナシリ(現在の中標津、国後島)を拠点にしていたのがツキノエ、チキリアシカイ、ポロヤ、イコンカヤニ(欠)の4人です。アッケシ(厚岸)からはイコトイ、シモチ、イニンカリ、ネシコマケの4人の首長が描かれています。ノッカマップ(根室)はションコ、ノチクサの2人、ウラヤスベツ(斜里)もチョウサマ、マウタラケの2人がそれぞれ肖像画に名を残しました。

次回はノッカマップ(根室)の首長ションコを取り上げ、「北のシルクロード」についても探っていきます。

アイヌ文化の豊かさに震える

わたしがフランスの地方都市ブザンソンでアイヌの肖像画「夷酋列像」を目にしたのは1997年の冬のことでした。ブザンソンに蠣崎波響の作品が眠っているとの道新の報道から13年。道内の美術館関係者や研究者が現地を訪れ、調査活動に入るなど、交流が活発化する中、ブザンソンの博物館が所蔵する西洋絵画の代表作を帯広と函館の両道立美術館で展示する計画が進み、その事前取材で訪れたのがこの年だったのです。


夷酋列像は一般展示されておらず美術館2階の特別収納室に大切に保管されていました。女性館長の案内に従い、手袋を着用して夷酋列像11点と「対面」した日のことがいまも鮮明に記憶に残っています。江戸末期、松前藩の絵師、蠣崎波響が描いた作品が時空を超えてブザンソンにある。その不可思議を思い、一点、一点、食い入るように見入ったのです。じっと目を凝らして画布を見ると、いくつもの驚きがありました。


夷酋列像
写真1(日本で夷酋列像の展覧会が実現した2016年、ポスターに使われたイラストです)


夷酋列像がブザンソンに保存されていることを報じた道新の浜地隼男特派員はこう記しています。<発見されたのは波響が描いた12点のうち11点(1点は欠落)。絵はそれぞれ縦45・5㌢、横36㌢の軽い木枠に張られた絹地に描かれている>

わたしの最初の驚きは、夷酋列像の作品の「小ささ」でした。わたし自身、勝手に大きな肖像画を想像していたため、ガラスケースの上に慎重に並べられた11点を前にして、そのサイズにびっくりし、逆に絵がぐっと身近なものに感じられたことが忘れられないのです。

夷酋列像をご覧になったことのない方も多いと思いますので、まずは作品を見ていきましょう。ただ、ブザンソンで発見された11点をすべて紹介するとなると、紙幅を取りますので、ここでは3点を選んで、じっくり紹介したいと思います。

描かれた12人はいずれも寛政元年(1789年)、クナシリ・メナシ地方のアイヌの人々が和人の過酷な搾取に耐えかねて蜂起した「クナシリ・メナシの乱」の際、松前藩に協力して鎮定に功績を残したアイヌの長老たちです。これはすでにお話ししました。


クナシリメナシの乱
写真2(根室ではクナシリ・メナシの乱で犠牲になった人々の供養祭が毎年開かれています)

アイヌの大蜂起が起きたのはちょうど、フランス革命が勃発した年に当たります。絶対王政を打倒するヨーロッパの大衆のうねりと呼応するかのように、ここ蝦夷地でも抑圧されたアイヌが蜂起したのです。歴史の偶然、いや必然なのでしょうか。夷酋列像が、いまフランスに在る現実と重ね合わせ、不思議な因縁に駆られます。

肖像画に描かれた12人の名前は通常、カタカナで表記されます。全員を列挙してみましょう。マウタラケ、チョウサマ、ツキノエ、ションコ、イコトイ、シモチ、イニンカリ、ノチクサ、ポロヤ、イコリカヤニ、ネシコマケ、イコトイの母親でツキノエの妻のチキリアシカイ。これで12人です(唯一の女性であるチキリアシカイの肖像画は前回、写真を掲載しました。確認してみてください)。

このうち「イコリカヤニ」だけが存在しておらず、計11点です。なぜこの1点が欠落しているのか。夷酋列像がブザンソンで発見されたこととあいまって、いまなお解明されていません。


イコトイ
写真3(夷酋列像の中でひときわ目を引くイコトイ。11人の中で最も若い指導者です)

それでは、肖像画に描かれたアイヌのうち、イコトイとツキノエ、ションコの3人について解説してみます。まず、最年少のイコトイ(1759年?~1820年)です。イコトイはアッケシ(厚岸)の首長で、クナシリ・メナシの乱が起きた時は30歳だったと推定されます。年長のツキノエ、ションコとともに、反乱を企てたアイヌたちをノッカマップ(現在の根室)に集めて取り調べを行い、戦いの終息に関わった中心的人物だったのです。

この絵を見てください。イコトイは片手に長い槍を手にしいます。立派な体躯。纏っている豪華な衣装は蝦夷錦と呼ばれる絹織物です。これはアイヌがロシアや中国との交易によって手に入れたものです。イコトイが蝦夷錦の上に西洋の服を思わせる赤い上着を羽織っているのが分かりますか。この上着には西洋絵画を思わせる陰影法が使われています。蝦夷地の最果て厚岸に当時、大陸から豊かな文化が伝わっていた! 鎖国状態の日本にあって、「北のシルクロード」(あらためてお話しします)が存在していたからです。


蝦夷錦
写真4(蝦夷錦が中国・ロシアから伝わったルートは「北のシルクロード」と呼ばれます)

イコトイは、江戸時代中期、幕府の命を受けて北方を調査した探検家・最上徳内(1754~1836年)をエトロフ・ウルップ両島に案内したことでも知られます。有能かつ勇敢な若き指導者。その肖像画からそんな人物像が浮き立ちます。わたしがブザンソンで初めて目にした作品の中で、最も目を引いたのがイコトイでした。

特ダネの原点に立ち戻る

日本から忽然と消えたアイヌの肖像画「夷酋列像」がなぜ、日本から1万㌔も離れたフランスの地方都市ブザンソンに眠っていたのか。謎の核心に迫っていきたいと思います。

わたしは長い新聞記者生活の中で、何か疑問が生じた時は必ず原点に戻ることの重要性を叩き込まれてきました。「夷酋列像」についても原点に立ち戻ってみる。それは、とりもなおさず、「発見」を報じた1984年(昭和59年)10月26日の北海道新聞を読み直し、精査することにほかなりません。そこには必ず、発見当時の経緯や状況が書かれているに違いないからです。それが書かれていなければ、記事は成立しません。

そこで、わたしは、36年前のその記事を、過去の道新紙面を保管している社内の書庫から探し出し、コピーを取って再読し始めました。実は、その作業は記録を職務とする新聞社といえども、意外に大変な作業でした。苦労の末、手に入れた当日の北海道新聞朝刊1面をここに掲載します。



紙面
写真1(夷酋列像がブザンソンで発見されたことを特ダネで伝える北海道新聞の紙面)

繰り返しになりますが、この記事はいわゆる道新の特ダネです。「自民党総裁選で中曽根氏再選」という本来なら1面トップとなるべき記事を横に押しのけ、「蠣崎波響の幻の名作がフランスで発見」が堂々のトップを飾っています。これこそがスクープです。当時の興奮が紙面から立ち上ってくる気持ちがします。

まず、夷酋列像の発見経緯について、記事は、同博物館の女性館長のコメントを引用する形でこう伝えています。「作品は博物館の倉庫に埋もれていたが、3年前(記事が掲載された1984年から3年遡ると1981年)、日本美術に詳しいパリ在住の専門家に鑑定を依頼して、貴重な作品であることが分った」というのです。



ブザンソン博物館
写真2(博物館は西洋美術が主なコレクション。正面の大作はクールベ作「鹿の最期」です)

館長は、ブザンソンのこの博物館のコレクションが主に西洋美術品を収集していて、倉庫に眠っている「不思議な作品」の価値が分からなかったと語っています。この作品がいつからこの博物館に保管されているかについては「1930年(昭和5年)以前に入手したもののようです」と年代を示している点が注目されます。
それでは、鑑定を依頼したパリ在住の専門家というのは誰でしょうか。
美術ファンの方ならご存知でしょうが、パリにはルーブル、オルセーなど世界を代表する博物館や美術館が数多く存在します。その中のひとつに、日本や中国の東洋美術の収集で名高い「ギメ美術館」があります。ちょっと話がそれますが、日本を愛してやまなかった元フランス大統領のジャック・シラク氏(昨年9月に86歳で死去)は、その回顧録の中で、高校生の時、偶然立ち寄ったギメ美術館で日本の仏像と出会ったことが日本を愛好するきっかけになった、と書いています。



ギメ美術館
写真3(パリ・トロカデロ広場に近接したギメ美術館。日本コレクションで有名です)

ブザンソンに眠っていた「夷酋列像」を鑑定したのは、当時、このギメ美術館の学芸員を務めていたクリスチーヌ・シミズさん(パリ在住の日本男性と結婚したフランス人女性)でした。クリスチーヌさんは浜地特派員の取材に対し「波響の真作とみて間違いない」とお墨付きを与えたのです。

浜地さんの記事をさらに追っていきましょう。
美術という専門知識が求められる分野でありながら、浜地さんは新聞記者らしい粘り強さで夷酋列像に迫ります。その記述をそのまま引用してみます。



チキリアシカイ
写真4(夷酋列像の中で唯一の女性像がチキリアシカイです)

<発見されたのは、12点といわれるもののうち11点。絵はそれぞれ縦45・5㌢、横36㌢の軽い木枠に張られた絹地に描かれている。雲竜紋、華麗な衣服が目を奪う色取りで、頭髪、あごひげが克明に描かれた全身像。鋭い眼光のアイヌのエシカ(酋長)たちの威厳に満ちた迫力が、フランスの美術関係者の視線を釘付けにしてやまない>

記事は次に、作品それぞれの細部に触れていきます。
<一枚ごとに描かれた人物の名前が記入されており、うちただ一人の女性像「チキリアシカイ」には「寛政二年初冬、臣廣年(ひろとし)画之(これを画=えが=く)」とあり、「さらに「臣廣年」「臣世枯(せいこ)」の印がある。他の絵には署名がない。廣年、世枯はそれぞれ、波響の本名と字(あざな)。ほかに波響の父の異母弟で、おいにあたる松前廣長(ひろなが)の自筆とみられる「夷酋列像序」があり、全文360字ほどの漢文で、「寛政元年のクナシリ・メナシの乱の際、藩側に協力したアイヌ有力者の肖像を藩主の命で波響が描いた」旨、連作成立の経緯が記されている>

やはり、原点に当たるものです。謎が解け出しました。さらに進めていきましょう。

ブザンソンに色めき立つ

日本から忽然と姿を消したアイヌの肖像画がフランスの地方都市で見つかった‼
前回、こんな話をして終えました。これからその謎に迫っていきましょう。



舞台はフランス東部のブザンソンです。みなさん、このまちの名前を聞いたことがありますか? フランスといえば首都のパリ、それに続くリヨン、マルセイユあたりはご存知でしょうか。いずれもフランスを代表する大都市です。ではブザンソンは?


スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の中心都市で、人口は約11万人。中世からドイツ、イタリアとフランスを結ぶ中継地として繁栄し、いまも森と川に囲まれた城塞都市として、美しい街並みを誇ります。パリからの距離は約350㌔。新幹線(TGV)に乗ると、3時間弱で到着します。


ブザンソン
写真1(ジュラ山脈の山懐に息づくブザンソン。山並みの向こう側はスイスです)


ブザンソン地図
写真2(ブザンソンの位置を確かめます。パリから東南へ350㌔、新幹線で約3時間です)


昨年の夏、札幌で上演され、好評を博したミュージカル「レ・ミゼラブル」をみなさん、覚えていますか? 原作者はビクトル・ユゴーですが、このフランスを代表する文豪の生誕地がここブザンソン。市内にはいまなお生家が残ります。では、映画技術の発明者として世界に名を残すリュミエール兄弟はご存知でしょうか? この兄弟もブザンソンの出身。ビクトル・ユゴーと並ぶ文豪スタンダールの代表作に「赤と黒」がありますが、この小説の舞台となったのもブザンソンです。


さらにもうひとつ。このまちは、1951年以来、毎年夏に行われる「ブザンソン国際若手指揮者コンクール」の舞台で、コンクールは指揮者を目指す世界の音楽家たちの登竜門になっています。日本が世界に誇る小澤征爾は1959年の第9回大会で優勝し、国際舞台への一歩を踏み出しました。佐渡裕も89年の第39回大会で優勝しています。音楽を志す者にとってあこがれの地、それがブザンソンなのです。


小澤征爾
写真3(世界を代表する指揮者となった小澤征爾。その一歩はブザンソンから始まりました)

指揮者コンクール
写真4(佐渡裕も指揮者コンクールで優勝し世界デビューを果たしました)


まちの中心部に位置する革命広場に面して、一般に門戸を開いているのがブザンソン博物館です。正式には「ブザンソン美術考古博物館」と言います。この博物館こそが、1984年(昭和59年)、日本の美術界を揺るがす震源地、発信源となった場所です。


ここで前回に繋がるわけですが、それでは1984年にこのまちで、何が起きたのでしょうか? 松前藩の家臣で画家として活躍した蠣崎波響(1764~1826年)の代表作でありながら、行方が分からず、「謎の絵画」と称されてきた「夷酋列像」(いしゅう・れつぞう)がこの博物館で発見されたのです!

話を整理してみましょう。まず、蠣崎波響は、江戸時代の中期から後期の絵師。彼が目標としたのは、京都で活躍する同時代の円山応挙(1733~95年)でした。その技術を習得するため、波響は「上洛」して応挙に師事し、蝦夷地に最先端の筆致を伝えました。「松前応挙」の異名を取るのはその証です。


波響
写真5(波響は京に出て円山応挙に師事しました。別名、松前応挙と呼ばれます)


中央から遠く離れた蝦夷地・松前で、応挙から学んだ技法を駆使し、27歳の時(1791年)に描いたのが「夷酋列像」でした。この列像は、前回お話しした通り、12枚の肖像画で構成されます。以前、作家船戸与一の「蝦夷地別件」を「読書の秋お勧めの一作」として紹介した際、この小説が1789年に蝦夷地で起きたアイヌの大蜂起「国後・目梨の乱」をテーマにしていると書きました。波響が夷酋列像に描いた12人は、まさにこの叛乱が発生した時、松前藩に協力して「鎮定」に力を尽くしたアイヌの長老たちなのです。

松前藩主だった松前道廣の命を受けた若き絵師、蠣崎波響渾身の「肖像画の連作」――。波響はこの作品を携えて再び、京にのぼり、時の光格天皇に「上覧」されたとの記録が残ります。ところがどうしたことでしょう! この肖像画は、その後、行方が一切分からなくなるのです。波響はこの作品を京都から松前に持ち帰ったはずですが、その足跡が辿れないのです。松前の波響の屋敷に保管されたのか、松前藩主に献上されたのか。それとも、幕末、激動の舞台となった箱館のだれかの手に渡ったのか………。


それが突然、時空を超えて、フランスの地方都市ブザンソンから見つかった…というのですから、大騒ぎになるのは当然です。「ブザンソンで『夷酋列像』発見」の記事を報じた道新パリ特派員の浜地隼男さんは、本記に添えたサイド記事で「日本のアイヌ絵や北方史の研究者が色めき立っている」と書きました(1984年10月26日付)。その興奮ぶりが紙面から伝わってきます。裏を返せば、それほど驚きに満ちた報道だったのです。

では、次回から「夷酋列像」の細部を一緒に見ていきましょう。

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