2020年07月

戦争が生んだ究極の理想

フランス北西部、ノルマンジー地方の小さなまちに生まれ育った聖職者サンピエールが著した一冊の本。題名を「ヨーロッパに永久平和をもたらすための試論」と言います。わたしたちは「戦争放棄」の水脈を遡り、ようやくその源流に辿り着きました。



タイトルを正確にフランス語で記すと
「Projet pour rendre la paix perpétuelle en Europe」


英語に訳すと
「Project to bring the eternal peace in Europe」
(これだとみなさん、理解できますね)


ではなぜ、サンピエールはこの時代に「永久平和」といった仰々しいタイトルの「試論」を構想したのでしょうか。本が発表された1710年という時代を振り返らなければなりません。


サンピエール2
写真1(サンピエールの肖像画は前回と今回掲載したこの2つが現在に伝わります)


みなさん、18世紀初頭のヨーロッパの状況をイメージできますか。結論からいってしまうと、この時代は20世紀と同様、まさに「戦争の世紀」だったのです。世は絶対王政の絶頂期。スペイン没落後、フランスではルイ14世の長期政権(在位は1643年から1715年。実に72年に及びました)が続き、英国と肩を並べて世界制覇に乗り出します。新興国オランダなどもこれに続きます。各国ともまずは、東インド会社を拠点にインドやアジアで抗争を激化させ、続いて新大陸アメリカにおける勢力争い、さらにアフリカや南米各地でも植民地戦争を繰り広げていきます。


ルイ14世
写真2(絶対王政の象徴とされるルイ14世。在位は何と72年間にも及びました)


いってみれば世界中で領土拡張合戦を繰り広げていたのです。そこにあったのは血生臭い悲惨な戦争でした。サンピエールにこうした戦乱の世を批判する書を書かせた理由は……。みなさんはお分かりですね。


ルイ14世は「太陽王」の異名を取りますが、その太陽が輝き続けることはありませんでした。治世の末期には国民の不満や不信が渦巻き、やがて絶対王政は崩壊へ向かいます。1789年のフランス革命によってルイ16世がギロチン台へと追い込まれたことを考えると、時代状況が具体的に浮かんでくるでしょう。



ベルサイユ宮殿
写真3(世界一ゴージャスなベルサイユ宮殿。その中で最も豪華なのが「鏡の回廊」です)


サンピエールのこの著書は「戦争をなくしたい」という庶民の願望に基づくもの。その素朴な気持ちを代弁し、理論化した。こう考えることが可能です。


著書は3巻で構成され、その研究は現在、日本でも広く行われるようになりました。では、ここには何が記されていたのでしょう。サンピエール研究の第一人者で元龍谷大学教授の本田裕志さんが翻訳した「永久平和論」(京都大学出版会)を手掛かりに要約してみましょう。大学の講義のようになりますが、少しお付き合いください。ここは大事なところです!


この著書の内容は実に画期的でした。「画期的」とは、絶対王政全盛の18世紀初頭において、市民の視点に立ち、「戦争放棄」に踏み込んだ独自の思想を主張したことにほかなりません。しかも、フランスの片田舎といっては失礼になりますが、ノルマンジー地方の人口500人のまちに生まれ育った聖職者が構想した思想であることも忘れてはならないでしょう。つまり、フランスの地方はすでにこの時代、教育が行き届き、新しい考え方が普及しつつある状況を物語っていると言えます。


サンピエールの主張は次の2点に要約されます。ますます大事なポイントです!
①ヨーロッパを構成する国家は紛争解決の手段として武力の行使を放棄し、仲裁による平和処理を旨とする合意に基づいて同盟を締結する。
②この目的を遂行するために、各国代表からなる常設会議を設立し、違反国に対しては軍事・経済制裁の罰則を科す。


お気づきのように、①では明らかに「武力の行使を放棄する」と記されています。武力の放棄の範囲は「紛争解決の手段」と限定しているので、日本国憲法第9条が規定する「戦力不保持」「交戦権の否認」をうたった戦争放棄の理念とは一致しません。しかし、日本の戦争放棄につながる思想の原点が、この文言に示されたのです。

さらに、②で規定した「各国代表から常設なる会議の設立」。これは現在の国連(UN)、あるいは欧州連合(EU)の萌芽ともいえる多国間主義の提案と読み取ることができます。


欧州連合イメージ
写真4(永久平和論には現在の欧州連合の萌芽とも言える提案も含まれていました)  


サンピエールのこの思想こそが世界初! 戦争放棄の原点と言われていることがお分かりになりましたか。あらためて、それは1710年のことだったのです。

永久平和をもたらす試案

わたしたちは、フランス北西部にあるブルターニュ・ノルマンジー地方にあるサンピエールという小さなまちを目指して、小旅行に出ました。


両地方は英仏海峡に面した牧歌的なところです。みなさんはこの地名を聞いて何かイメージが湧きますか? チーズの好きな方ならだれも知っている「カマンベール」。そのふるさとがここです。蕎麦粉を原料にしたクレープとシードル酒の発祥地としても有名です。歴史が好きな方なら、第2次大戦末期、英米連合軍がナチスドイツに占領されたフランスを解放するために繰り広げた大作戦の舞台として登場します。


カマンベール
写真1(フランスには365種類のチーズがあります。1年間、毎日違うチーズが食べられます。世界に知られるカマンベールはノルマンジー地方の特産です)

映画好きの方には…カトリーヌ・ドヌーブ主演の「シェルブールの雨傘」を。そのロケ地である港町シェルブールはこの地方の中心都市です。どんどんイメージを膨らませて………いざサンピエールへ。

サンピエールの正式な名称はサンピエール・アン・エグリーズといいます。人口は約500人。フランス国内の自治体としては最も小さい規模かもしれません。北海道で一番人口の少ない自治体をご存知ですか? 道北にある上川管内音威子府村(約700人)です。これに、後志管内神恵内村の約800人、オホーツク管内西興部村の約1000人が続きます。サンピエールは音威子府、神恵内の両村よりさらに小さく、日本でなら「限界集落」といわれるかもしれません。



サンピエール
写真2(人口500人のサンピエール。小さなまちながら中世の街並みが残ります)


ただ、フランスには自治体を人口に応じて、市町村と格付けする概念が存在しません。自由と平等を掲げる国。人口500万人の首都パリも、500人のサンピエールも、自治体は「ville(ヴィル)」と呼び、それ以外の言い方はないのです。日本では役所も、村と町は役場、市は市役所と区別しますが、フランスではすべて「hôtel de ville(オテル・ド・ヴィル)」。この言葉だけです。

最初から脱線してしまいました。サンピエールを訪ねた本来の目的に戻ります。人口500人のサンピエールは、先ほどの写真にあるように、中世の街並みが残り、寂しい印象は全くありません。ここに生まれ育ったのが、話の主人公であるカトリックの聖職者・サンピエールです。

彼の誕生は1658年ですから、日本でいえば、徳川4代将軍家綱の治世。切支丹の弾圧や鎖国政策もようやく軌道に乗り始めます。俳人・松尾芭蕉が奥の細道の旅に出たのもちょうどこのころでした。


サンピエール肖像
写真3(サンピエールの肖像画。聖職者としてより「永久平和論」の著者として知られます)


サンピエールに生まれたサンピエール。つまり、このまちは、サンピエールの名をそのまま、まちの名前に頂いたということになります。人名をまちや通りの名前にするのは決して珍しいことではありません。たとえば哲学者デカルトの生まれたまちは、デカルトとして存在します。


日本ではあまり人名を通りや駅の名称に使うことはありませんが、フランスでは日常的。まちは偉人のオンパレードです。たとえば、パリの玄関シャルル・ド・ゴール空港、現代芸術の拠点ポンピドー・センターはご承知の通り、大統領の名前。ショパン、モーツァルトからルーズベルト、チャップリンまで。国外の著名人も通りや広場、駅名に広く登場します。実に国際色豊かですね。

サンピエールはこの地方に城を持つ名門の出です。5人兄弟の末っ子で、幼少時からカトリックの聖職者を目指して厳しい教育を受けました。世は太陽王と畏怖されたルイ14世の時代。領土拡張のための戦争が繰り返し行われ、庶民は次々と戦場に駆り立てられていきました。貧富の差の拡大、社会的弱者の放置…。こうした過酷な現実を直視したサンピエールは政治の在り方を巡る思想を深めていくのです。

こうした中で執筆されたのが「ヨーロッパに永久平和をもたらすための試案」(永久平和論)と呼ばれる著作です。発表したのは1710年、サンピエールが52歳の時でした。



永久平和論
写真4(サンピエールの「永久平和論」は日本語にも翻訳され、研究されています)


わたしたちが「戦争放棄」の水脈を遡って辿り着いたカマンベールとクレープの故郷・サンピエール。まちの名前に名を残す聖職者が著したこの1冊の本には一体、何が書かれていたのか。さらに探っていきましょう。

戦争放棄のさらなる源流へ


フランス革命を機に発出された「人権宣言」こそが、人権の概念の出発点。18世紀後半に人類はこれほど崇高な意識のもと、自由で平等な社会の実現に向けて力強い一歩を踏み出した----。前回、こんな言葉で「人権宣言」を褒め称えました。


しかし、先駆的な理想はいとも簡単に空文化したことを考えると、一体、この宣言は何だったのかと落胆せざるを得ません。みなさんご承知の通り、自由と平等を渇望するフランス革命が人権宣言を生み出す源泉となったわけですが、革命の進展とともに、フランスの政治状況は人権の理想とはほど遠い恐怖政治へと発展し、人民を次々と断頭台へ送り込んでいきます。




コンコルド広場
写真1(パリ中心部にあるコンコルド広場はかつて、断頭台が置かれ、凄惨な処刑の場となりました。国王も王妃も、革命の指導者たちも…)



国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットがパリ・コンコルド広場でギロチンによって斬首されたのはもとより、マラー、ダントン、ロベスピエールといった革命の主導者らも内部抗争の果て、次々と処刑されていったのです。



主権者たる国民の自由・人権を保障する価値と、おびただしい流血を伴う戦争の代償との比較考量という、現代と全く同じ基盤に立って生み出された理念は、革命による混乱とともに霧消し、政治体制は再び流動化、保守化していきます。



世界史を学んだ人ならだれもが知っています。その後のフランスの迷走を。革命後に登場したナポレオンは、戦争放棄などどこ吹く風、自衛のための戦争を容認し、近隣諸国の征服に乗り出します。国民がナショナリズムに陶酔していったのは、愚かさの象徴でしょうか。自由と平等を掲げる民主国家どころか、フランスには再び王制が復古し、ナポレオンによる帝政が敷かれ、民衆に対する圧制が復活します。




ナポレオン
写真2(フランス革命後、混乱する国内情勢を背景に台頭したナポレオン。皇帝まで昇り詰めた人生は壮大なサクセスストーリーです。島流しの刑による最期はみじめでした)




昨年夏、札幌でビクトル・ユゴー原作のミュージカル「レ・ミゼラブル」が上演された際、そのストーリーを辿る解説を試みたことがありましたが、みなさん覚えていますか。このミュージカルの時代背景こそが、フランス革命後にこの国を覆った暗黒の19世紀前半だったのです。




19世紀から20世紀に及ぶ歴史の流れは、フランスに限らず、ヨーロッパ全体に共通する潮流だったといえます。政治混乱の果てに訪れたのは、帝政の崩壊、共産主義の台頭、そして大きな2度の大戦。ファシズムの狂気とポピュリズムの乱舞…。振り返れば、政体の転換と革命、繰り返される戦争により、民主主義の理想は吹き飛び、「人権宣言」は有名無実化していったのです。


虚しさが募りますが、今回のストーリーが目指すのは、日本国憲法の戦争放棄に繋がる水脈を辿ることでしたので、話を軌道に戻しましょう。



前回、1789年のフランス革命によって誕生した「人権宣言」の2年後、つまり1791年に制定されたフランス初の憲法で「戦争放棄」が謳われたところまで辿り着きました。これは、国家レベルとして世界で初めて「戦争を放棄する」と明言した公式文書であり、歴史的な出来事だったことを確認しました。




では、話を進めます。戦争放棄の思想は実は、さらに歴史を遡ることができます。フランス革命から79年前。1710年に時計の針を巻き戻し、みなさんと小旅行に出かけましょう。





モンサンミシェル
写真3(この写真を一度は見たことがあるでしょう。フランス西部に浮かぶ周囲900㍍の小さな島。島全体が修道院になっており、聖地として訪れる人が絶えません)




フランスの地図を思い浮かべてください。フランス人は自分の国の形が六角形をしているので、自国を「レクサゴンヌ(l’hexagone)=フランス語で六角形の意味」と呼んでいます。首都パリから西へ400㌔。その六角形の左上に当たる英仏海峡沿いに、ノルマンジーとブルターニュと呼ばれる二つの地方があります。

 


サンピエール
写真4(ノルマンジー地方の小村サンピエール。村が輩出した聖職者の名を冠しています



世界遺産に登録されているモン・サン・ミシェルという小さな島をご存知ですか。日本の旅

番組や旅行雑誌にもよく登場するので、目にした方も多いでしょう。小旅行の目的地は、この島のすぐ近くにあるサンピエールという村。なぜでしょう。それは、ここに生まれ育ったある聖職者の足跡を追って、「戦争放棄」の原点を探るため…です。




Allons y!(アロン・ズィ=さあ、でかけましょう!)


人は自由かつ平等に生存する

フランス革命を機に発出された「人権宣言」は前文と17条で構成され、その第1条に世界で初めてとなる人権の概念が記されたことを前回紹介しました。


「人は自由、かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」


繰り返しになりますが、これこそが人類の出発点となった、名高い「人権宣言」の文言です。

この宣言について、このままあっさり通り過ぎてしまうのはもったいないので、少し立ち入って紹介したいと思います。高邁な民主主義の理念が謳われているからです。そのいくつかを見てみましょう。


コンコルド広場
写真1(人権宣言を生み出した革命の舞台がコンコルド広場です。コンコルドはフランス語で協調の意味。広場はあまりに広くて1枚の写真には納まりません。当時は凄惨な処刑の場となりました。世界一有名な大通り・シャンゼリゼはここから凱旋門まで約2㌔続きます)


コンコルド駅
写真2(この広場の下にある地下鉄コンコルド駅。3つの路線が交差しておりパリの心臓部です。駅の壁にはアルファベットのタイルが張り詰めてありますが、この文字は適当に並べてあるのではなく、人権宣言の文面が書かれています)


【第3条】(国民主権)いかなる主権の淵源(えんげん=みなもと)は本質的に国民にある。

【第6条】(法の下の平等)すべての市民は法の下に平等であり、その能力に従い、かつ、その徳や才能以上の差別なしに、すべての公的な位階、地位、職に対し平等に資格を持つ。

【第10条】(意見の自由)何人もその意見の表明が法律によって定められた公の秩序を乱さない限り、たとえ宗教上のものであっても、その意見について不安を持たないようにされなければならない。

【第11条】(表現の自由)思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利のひとつである。従って、すべての市民は法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に話し、書き、印刷することができる。

【第16条】(三権分立)権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は憲法を持たない。



「人権宣言」を初めて目にする人も多いかもしれません。読後感はいかがでしょうか。18世紀後半に人類はこれほど崇高な人権意識を掲げ、自由で平等な社会の実現に向けて力強い一歩を踏み出したことに、あらためて驚かされます。そして、人権を守ることこそが人間の存在の証であると宣言した【第1条】をしっかりと胸に刻みたいと思います。そして、話を進めましょう。この1789年の「人権宣言」の理念を体現するものとして2年後の1791年、フランス初の憲法(constitution)が制定されました。


1791年憲法
写真3(現存するフランス初の憲法。人権宣言を骨子とし革命勃発後に制定されました)

この憲法は基本的に人権宣言を下敷きにしており、前文と207条で構成されます。ここで特筆すべきは、「3章1節2条」に規定された条文です。

今回のストーリーは「人権」に端を発し、「戦争放棄」へと導くのが目的でした。その水脈をたどる過程で辿り着いたのが、「人権宣言」と、それをベースに制定された憲法です。ここには「戦争放棄」につながるどんな内容が盛り込まれているのでしょうか。極めて重要なその部分を見てみましょう。


【3章1節2条】フランス国民は征服の目的をもって、いかなる戦争を行うことを放棄し、またいかなる国民の自由に対しても決して武力を行使しない。


みなさんどうですか。この条文を読んで何か感じるものがありますか。日本国憲法第9条を想起しませんか。では第9条「戦争の放棄」と比べてみましょう。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(第1項)


自衛官募集
写真4(憲法論争の中で常に自衛隊の存在が世論を2分してきました。これは自衛隊の㏚を兼ねた隊員募集のポスターです)

憲法第9条の話はのちほどゆっくりしますが、みなさんに認識してもらいたいのは、「戦争放棄」を憲法に規定した立法例は、実は日本国憲法が唯一無二ではないという事実です。「戦争放棄」の範囲を侵略戦争(征服の目的をもったいかなる戦争)に限定しているため、自衛の戦争、あるいは制裁の戦争までをも放棄した日本国憲法とは異なることは言うまでもありません。

しかし、戦争放棄の思想の原点は、ここフランス憲法にある。こう言って間違いありません。国家レベルとして世界で初めて「戦争を放棄する」と宣言した「公式な文言」は1791年に遡る。歴史はこう物語っています。

ギャラリー
  • 戦争が生んだ究極の理想
  • 戦争が生んだ究極の理想
  • 戦争が生んだ究極の理想
  • 戦争が生んだ究極の理想
  • 永久平和をもたらす試案
  • 永久平和をもたらす試案
  • 永久平和をもたらす試案
  • 永久平和をもたらす試案
  • 戦争放棄のさらなる源流へ