2020年06月

なぜ戦争と人権が連動するのか

前回の話を読み返してみて、「戦争放棄」と「人権」の関連付けがやや唐突な印象与えてしまった気がします。そこで、その関連性について若干、補足説明させてください。


今回の一連のストーリーは、最終的に「戦争放棄」をうたう日本国憲法第9条に辿り着こうと思っていますが、ではなぜ「人権」と「戦争」が連動するのでしょうか。それは9条が規定する「戦争放棄」が国民の人権を守ることに帰結するからにほかなりません。


さきの第2次世界大戦で日本は、戦場で、銃後で、合わせて300万人もの人が亡くなりました。この膨大な戦死者、莫大な犠牲の上に、現在の日本の平和と繁栄が築かれてきたのは言うまでもありません。国家(軍部)が国民を戦場に駆り立て、無為無策な戦闘で戦死者を生む構造。これは平凡で平和な暮らしを希求する国民の基本的権利である人権の侵害行為につながる。こんな視点から、まずは「人権」について考え出したのです。


原爆ドーム
写真1(戦争の悲惨さをいまに伝える広島の原爆ドーム。人権を考えるシンボルです)

「人権」の概念はフランスに発祥し、同国はいまなお「人権の母国」の異名を取っています。その原点となったのは1789年に起きたフランス革命でした。ルイ16世の絶対王政に民衆が蜂起し、政治犯が収監されているパリ・バスチーユ監獄を襲撃したのが1789年7月14日。フランスでは「革命記念日」として1年で最も大事な国民の祝日です。日本ではなぜか「パリ祭」と呼んで、よその国の祝日を楽しみます。何とも不思議な習わしですね。

この革命によって、国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットがパリ中心部のコンコルド広場で、断頭台の露と消えたことはみなさんご承知の通りです。フランス革命については実に膨大な書物と記録が残され、日本でも数え切れないほどの学者が研究の限りを尽くしきました。そんな中、わたしは、作家佐藤賢一さんの渾身の一作「小説フランス革命」(集英社文庫、全18冊)の通読をお勧めします。佐藤さんは、性的不能者だったルイ16世とマリーアントワネットの性生活を史実に基づいて記述していますし、革命を主導したロベスピエールが同性愛者であり、死ぬまで童貞だったことまでリアルに描き出します。


小説フランス革命
写真2(佐藤賢一さんの渾身作「小説フランス革命」。文庫18冊を一気に通読しましょう)

フランス革命の最大の果実は、ブルボン王朝による絶対王政を打倒したことはもちろんですが、「人権宣言」を明文化したことを忘れてはなりません。前回、「人権」はフランス語で「droits de l’homme」(ドロワ・ドゥ・ロム=人間の権利)と言い、英語ではなくフランス語として誕生したとお話ししました。日本でこの言葉が登場するのは1886年。幕末の蘭学者であり啓蒙思想家の津田真道(現在の岡山県津山市出身)が考案した翻訳語だったことを思い起こしてください。

では、革命を踏まえて発せられた「人権宣言」には、何が書かれていたのでしょう。原文に当たりましょう。「人権宣言」はパリの国立カルナヴァレ博物館に保存されています。フランス語で正式にはdéclaration des droits de l’homme et du citoyen。正確に訳すと「人間と市民の権利の宣言」と言います。この歴史的な宣言は、2003年にユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界記憶遺産に登録されました。


バスチーユ襲撃
写真3(人権宣言の発端は革命の勃発。バスチーユ監獄の襲撃に始まりました)


宣言はフランス革命の基本原則を記したもので、前文と17条で構成されます。その前文と第1条で「人権とは何か」を簡潔ながら的確に規定しています。以下がその前文と第1条です。


【前文】国民議会として構成されたフランス人民の代表者たちは、人の権利に対する無知、忘却、または軽視が公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因であることを考慮し、人間の譲り渡すことのできない神聖な自然的権利を厳粛な宣言において提示することを決意した。
【第1条】(自由・権利の平等)人は、自由、かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する。

これこそが世界で初めて記された「人権の概念」です。人間の自由と平等と並んで、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖――が盛り込まれました。前文の構成・言い回しを含め、日本国憲法の前文、基本精神と何と類似していることでしょう。18世紀後半、世界は自由と平等、民主国家を求めて激動し、フランスでは現代とほぼ同等の諸権利を保障する人権宣言が発出されたことを考える時、国交を断絶してわが世の春を謳歌していたわが国、徳川治世に対し複雑な思いを抱かざるを得ません。


米国憲法
写真4(アメリカでは独立戦争を経て1788年には世界初の憲法が公布されました)


もし、日本が鎖国政策を取らずに海外に門戸を開いていたら。切支丹を追放していなかったら…。全く違った歴史が描かれたことでしょう。

人権を辿ると9条が見える

北大の元学長で札幌日仏協会の会長を長く務めた中村睦男さんが先日、81歳で逝去されました。葬儀は近親者で済ませたとはいえ、要職を務められた先生です。胆振管内白老町に開設され、オープンを待つ民族共生象徴空間(ウポポイ)の誘致にも、アイヌ文化振興機構理事長として大きく関わりました。今後、大学やアイヌ関係者、もちろん日仏協会を含めて「送る会」などが予定されると思います。あらためてご冥福をお祈りするとともに、生前の社会活動への貢献に感謝申し上げます。


ウポポイ
写真1(白老町に完成しオープンを待つウポポイ。中村さんが誘致に奔走されました)

前回、中村さんがフランスのポワチエ大学への留学経験があり、フランス法に基づく平和憲法の研究に功績を残されたと書きました。日本の著名な憲法学者の中にはフランスで学んだ方が多く、こうした法学者によって日本国憲法の支柱である「戦争放棄(第9条)」が守られてきたことにも触れました。なぜでしょうか。これから、そんな話をしていきたいと思いますが、まず前提となる「人間の基本的権利」=「人権」について考える必要があります。

フランスはご承知の通り、1789年のフランス革命で民衆が蜂起して絶対王政を打倒、「人権宣言」を高らかに謳い上げました。「人権の母国」と呼ばれる所以です。この話はのちほどゆっくりしたいと思います。


人権宣言
写真2(フランス革命を契機に生まれた人権宣言=パリ・カルナヴァレ博物館蔵)


「人権」とは、現代を生きるわたしたち日本人にとって、「空気」のような存在です。日常を幸せに生きるうえで、国民に等しく認められた権利です。毎朝、新聞を開くと、この「人権」の文字に触れない日はありません。この1週間の北海道新聞朝刊から人権の文字を拾ってみましょう。働く者、女性、子供、高齢者、障害者、外国人、性的マイノリティー(LGBT)、アイヌの人びと、犯罪被害者。これらの言葉の後に「の人権」を付けてみてください。日々、人権にまつわる多くの事象、情報が溢れているのは、裏を返せば、人権侵害が現代社会にもたらす影響がいかに大きいかを物語っているからです。


「人権」という概念がヨーロッパに源流を持つのはご存知でしょうが、さて、日本でこの言葉が使われ出すのはいつごろだと思いますか? それは江戸時代の最終年、明治維新直前の1868年(慶応4年)のことでした。つまり、日本には江戸時代が終わるまで、「人権」という概念は存在しなかったことになります。


「人権」という言葉を初めて使ったのは、幕末の啓蒙思想家・津田真道(つだ・まみち)です。みなさんは福沢諭吉や森有礼(もり・ありのり)、西周(にし・あまね)、西村茂樹らとともにその名前に触れたはずです。西周は「哲学」(philosophy=フィロソフィー)の翻訳者として知られますが、「人権」は津田真道が発案した翻訳語だったのです。


津田真道
写真3(明治の啓蒙思想家・津田真道は岡山・津山の出身。「人権」の発案者です)


西周
写真4(同じく啓蒙思想家の西周は島根・津和野の出身。「哲学」の言葉を生み出しました)


津田は現在の岡山県津山市にあたる美作(みまさか)国津山藩に生まれ、江戸に出て蘭学を学びます。1862年には蘭学の故国・オランダの名門ライデン大学に西周とともに留学、2年間にわたる大学の講義録(憲法学)を帰国後、「泰西国法論(たいせい・こくほうろん)」と題して翻訳し、幕府の江戸開成所から出版しました。


それまで、ヨーロッパの議会制度や憲法は、中国で発行された漢文による「世界地理書」を通じて日本に紹介されてきましたが、津田真道の翻訳は中国を介さず、いわばヨーロッパ直輸入、日本初の西洋法律書といわれています。ここには欧州の三権分立制度やフランスやイギリスの憲法についても詳述されていますが、その中で、津田はフランス語のdroits de l’homme(ドロワ・ドゥ・ロム=人間の権利)の訳語として「人身上諸権」「人身の権」を当て、その省略形として「人権」と称したのです。


人間の基本的権利という意味での「人権」は津田真道が工夫を重ねることで、当時の啓蒙学者たちの間でも用いられるようになります。これが日本における「人権」の黎明期。ヨーロッパから遅れること100年が経過していました。


少し講義調になりました。そのついでに。「人権」は英語でhuman rights (ヒューマン・ライツ)と言いますが、歴史をみれば、その言葉はまずフランス語の「droits de l’homme」として誕生し、これをフランス語から英語に翻訳する形で「human rights」が生まれた。こういう順番になります。


フランスの基本精神を成す「人権宣言」を辿る中で、ぜひ知っておいてほしいことがあります。それは、日本国憲法第9条が定める「戦争放棄」についてです。みなさん、9条は戦後日本を占領したアメリカから強要されたと思っていませんか。「戦争放棄」の水脈を遡ると、実はこの「人権思想」と密接に絡みつき、革命よりさらに80年近く前の18世紀初頭、同じフランスに行き着く―。こんな、あまり知られていない事実を掘り下げたいと思います。

開封されなかったメール

5月11日の北海道新聞朝刊を手にしたわたしは、第1社会面の死亡記事を何度も読み返しました。「アイヌ財団理事長、元北大学長 中村睦男さん死去」。こんな見出しで、中村さんが81歳で死去したことを伝えていたからです。記事によると「4月17日に心不全のため、札幌市内の病院で死去したことが分った」と書かれていました。



亡くなってから2週間、死亡の報はマスコミに知られなかったのです。北大の元学長の訃報がこんなに長く表に出なかったとは。それもさることながら、わたしが驚いたのは、中村さん宛てに4月27日、私信のメールを送ったばかりだったからです。


中村先生
写真1(最後のツーショット。左がわたしです=札幌日仏協会総会で2月21日に撮影)


なぜメールを送ったのか。それは、4月26日の道新「本欄」に、中村さんが編者を務める「平和憲法とともに」と題した単行本が出版され、その書評が掲載になったからです。この本は、憲法学者として知られる北大の深瀬忠一さんを追悼する本で、深瀬さんに師事した3人の憲法学者が編纂しました。

わたしはメールで、新型コロナウイルスの感染拡大の折、お変わりなく過ごしているか、身を案じたうえで、道新書評欄に掲載された追悼の本に触れ、その労をねぎらい、「コロナが落ち着いたら再会しましょう」と綴りました。



平和憲法とともに
写真2(刊行された「平和憲法とともに」は深瀬忠一さんを追悼する書です)

中村さんは非常に几帳面な方で、メールを出すと必ず返信を頂きました。しかし、このメールに対しては何の応答もありませんでした。それもそのはず。17日に亡くなっていたのですから。わたしのメールが開封されることはなかったのです。

中村さんは憲法学者であるとともに、アイヌ民族の権利回復に尽力し、北大退職後の2009年からは公益財団法人アイヌ文化振興・研究振興機構の理事長を務めました。その多大な貢献は当然ですが、この死亡記事には残念ながら、北海道とフランスの交流を推進した功績については全く言及がありませんでした。

中村さんは2007年から今年3月まで、札幌日仏協会の会長を歴任され、フランス政府からも勲章を授与されています。わたしが知己を得たのは、憲法やアイヌ問題ではなく、この日仏協会の活動を通じてのことだったのです。

これまで何度かお話ししたように、わたしは北海道新聞のパリ特派員を務めたことがあり、それをきっかけに、細々とではありますが、道内の「フランス人脈」のようなものを築いてきました。現在、札幌日仏協会の常任理事に名を連ねていますが、これも中村さんの推薦があったからです。理事会の席では常に隣り合わせで座っておりました。

北大の出身ではないものの、「あなたは教え子のようだ」と可愛がってくれ、転勤で札幌を離れることが多かったにもかかわらず、手紙やメールでよく励ましてくださいました。その意味で、わたしにとって「恩師」のような存在でした。

最後にお会いしたのは今年2月21日。札幌日仏協会の総会・懇親会の席でした。総会では長年務めてきた会長を退く旨を告げ、その理由として「80歳を超え、健康面でみなさんにご迷惑をかけるわけにはいきません」と語ったのが印象に残ります。その時、もしかすると体調に支障をきたしていたのでは……。総会後の懇親会では、満面の笑みをふりまき、シャンパンを手に会員のみなさんに謝意を述べていました。

中村さんはなぜ札幌日仏協会の会長を務められたのか。フランスとはどんなかかわりがあったのでしょう。それは、経歴を見れば明らかです。北大法学部を卒業後、同大で助手を務めていた1965年から2年間、フランス政府の給費留学生として、フランス中部の地方都市ポワチエにあるポワチエ大学に留学しました。


ポワチエ
写真3(中世から大学都市として知られるフランス中部のポワチエ)

ポワチエの戦い
写真4(イスラム教徒とキリスト教徒の激戦の舞台として歴史に名を刻みます)

フランス国内ではソルボンヌ大学と並んで、中世から法学を志す者の最高学府として知られます。同時に、このまちはイスラム軍とキリスト教徒の激戦の舞台となった「ポワチエの戦い」(732年)で歴史に名を刻んでいます。

日本の著名な法学者には、伝統的にフランス法を学んだ人が多くいます。日本の平和憲法はこうした学者たちによって脈々と守り継がれてきたといっても過言ではないでしょう。なぜフランスなのか。それは、この国が「人権の母国」と呼ばれるように、「人権の概念」を世界で初めて、世に生んだ国だからです。日本国憲法9条が定める「戦争放棄」の水脈を辿っていくと、実はここ、フランスに行き着くのです。こんなお話をこれから進めていきたいと思っています。

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