2020年05月

愛を説き、祈りに生きる

ローマ教皇フランシスコの訪日をきっかけに昨年12月から書き綴ってきた「信仰をめぐる旅」はそろそろ終わりに近づきました。


このテーマで旅を続けて22回目。長かったような、短かったような。不思議な気持ちです。まだまだ語り尽くせぬ話がありますが、わたしの知識不足から、ときに中途半端だったことをお詫びしなければなりません。しかし、一連の流れの中で書きたかったこと。それは、生をもってこの世に生まれたわたしたちが、限られた現世の時間を「いかに過ごすべきなのか」。ローマ教皇の来日はそんな「気づき」を与えてくれたと信じるからです。


フランシスコ教皇
写真1(フランシスコ教皇は世界を回り、隣人愛と平和を唱え続けています)


約6カ月間のストーリーを「見出し」とともに振り返ってみましょう。旅は、フランシスコ教皇がその名を求めたイタリア中部アッシジ生まれの聖人フランシスコに始まりました。聖人の一生を「貧者に寄り添い清貧であれ」「愛されるより愛すること」「自然を愛し慈しんだ聖人」「改革への小さな灯りをともす」と題して紹介しました。


続いて、日本にも洗礼名をフランシスコに求め、ローマ教皇のもとを訪れた武士がいたことについて書きました。仙台藩主伊達政宗が派遣した支倉常長です。「フランシスコに名を求めた侍」「苦難に満ちた大海原へ」「世界は激動し殺気立っていた」「沈黙が意味する悲運の運命」「ハポンさんが映す光と影」「異教徒を虐殺して守った国家」。これらのタイトルから連想できるように、支倉常長がたどった帰国後の悲運の末路を遠藤周作の代表作「侍」を読み解きながら紹介しました。

さらに、支倉常長に先立って九州のキリシタン大名がローマ教皇のもとに派遣した「4人の少年」について、苦難の旅路とローマでの栄誉、さらに支倉と同様、帰国後の悲しい結末を辿ったのです。「栄光は落日の序章だった」「ラガッツィからセニョーリへ」「『福者』になった少年」「少年が問う信仰とは」「『にこり』と笑える幸せ」。切支丹があまりに非人道的な手段で虐殺されていった時代を思う時、脳裏に浮かんだのが、さきの第二次世界大戦でユダヤ人が虐殺されたアウシュビッツの訪問でした。

ポーランド南部の古都クラクフから始まり、その近郊に位置するアウシュビッツを訪ねました。「ホロコーストの原点がここに」「地球を動かしたまち」「訪れなければならぬ場所」「『働けば自由に』の嘘と恐怖」「沈黙の祈りが意味するもの」「歴史の影を背負った言葉」。



アウシュビッツ
写真2(ドイツの歴代首相はアウシュビッツを訪れ、自国の犯した行為を謝罪し続けます)

アウシュビッツには歴代のローマ教皇も足を運び、平和の祈りを捧げてきました。ナチス・ドイツによる狂気ともいえるユダヤ人の大量虐殺。わたしたちは、その現場を訪ね、あらためて日常とともにある小さな幸せと祈り(それを信仰というのかもしれません)の大切さを考え、必ずや迎える「死」の瞬間に向けて人生を昇華させていく道のりの遠さを思いました。

そしていま、ローマ教皇に着想を得た長い旅を、どこで終えようかと考え、みなさんをお誘いしたのが、「ここ」です。

ローマ教皇はカトリックの総本山としてローマのバチカンに存在してきました。初代教皇のペトロ(337~67年)から数え、昨年訪日したフランシスコ教皇は266代目に当たります。教皇がローマに存在するのは、はるかローマ帝国時代、キリスト教が国教となったからです。当時は新興宗教に過ぎなかったキリスト教が次第に権力と密接に結びつき、「一神教」として君臨するようになるには長い、長い歴史の積み重ねが必要でした。

しかし、ローマ教皇が実はローマに存在しなかった時代があるのをご存知でしょうか。そう。1309年から77年までの68年間、ローマ教皇は現在の南フランス・アビニョンに「幽閉=捕囚」されていました。教皇でいうとクレメンス5世からグレゴリウス11世に至る7人です。「捕囚」というと、自由を奪われた悲惨な状況をイメージしますが、7人の教皇はフランス国王の絶大な庇護のもと、南仏で優雅な時を過ごしたといわれます。



アビニョン教皇庁
写真3(アビニョン中心部に構える教皇庁。堅牢な建物はキリスト教の権力の象徴です)  

アビニョンは日本人あこがれの南仏プロバンス地方の中心都市。「世界で最も美しい村」と呼ばれる村々が点在し、ラベンダーの花が咲き誇ります。パリから高速鉄道(TGV)で2時間40分。壮大な教皇庁とローヌ川に架かる「アビニョンの橋」が迎えてくれます。



アビニョンの橋
写真4(童謡で世界に知られる「アビニョンの橋」。本名はサン・ベネゼ橋といいます)

教皇は時の権力と抗争を繰り広げながら、いまや12億人もの信者を統合する精神文化の最高峰へと上り詰めました。アビニョンのまちを歩くと、「時の重さ」がずしりと迫ります。ギリシャ時代の多神教に代わる「新興・異端勢力」として登場したキリスト教。その歴史を紐解き、路地を彷徨する。ローマ時代の雰囲気を色濃く残すこのまちは、訪れる人の想像力を刺激してやみません。



どうか、ぜひ(Allons y=アロン・ズィ)!

歴史の影を背負った言葉

ナチス・ドイツによるアウシュビッツでの虐殺行為を語る時、犠牲になったユダヤ人が欧州全域からポーランドの地に連行されたことを、思い起こす必要があります。さきの第2次世界大戦下、ドイツと隣接・交戦し、歴史的に多くのユダヤ人が居住していたフランスも例外ではありませんでした。

話は少し逸れますが、みなさん、「コンシェルジュ」という言葉をご存知ですか。最近、よく耳にします。たとえば、丸井今井札幌本店や札幌三越に行くと、1階の香水や化粧品売り場に「香りのコンシェルジュ」と呼ばれる女性が常駐します。札幌グランドホテルでも、市内の病院や銀行、観光案内所などにもこの呼称を付けた人がいるかもしれません。


コンシェルジュ
写真1(ホテルに行くとコンシェルジュと呼ばれる女性が接遇してくれます)

まちを歩くと、実に多くのフランス語が溢れています。料理にお菓子、ファッションに芸術。パティシエ、ソムリエ、カフェ、ブティック、シネマ…。毎日着用するマスクも。枚挙に暇がありません。そのひとつがコンシェルジュです。日本では「顧客の相談に乗ってくれる専門知識を有する人」といった意味で広く使われています。おしゃれな響きのフランス語ですが、実は暗い過去を背負った言葉であることを、みなさんに知っておいてもらいたいのです。

わたしは北海道新聞の特派員としてパリで生活する機会があったと以前、お話ししました。
パリで生活すると、必ずアパルトマンと呼ばれる集合住宅で暮らすことになります。日本で言えばマンション。わたしも約5年間、家族とともにアパルトマン暮らしを経験しました。

アパルトマンの最大の特徴は、玄関横に居住者と生活を共にする管理人が必ず住んでいることです。さきほどお話しした「コンシェルジュ」とは本来、この管理人を指す言葉なのです。ポルトガルからの貧しい移民労働者が担ってきました。



アパルトマン
写真2(わたしが暮らしたパリ16区のアパルトマンです。17世紀の石造りの建物で、玄関横にはポルトガル移民のコンシェルジュが住んでいました)

コンシェルジュは郵便物の配布やごみの収集、清掃を主な仕事としていますが、最も重要な役割、それが「居住者の動向に目を光らせること」。住人の人となり、家族構成、出身地、交友関係…。その情報収集こそがコンシェルジュの任務なのです。

さきの大戦末期、フランスはナチス・ドイツの支配下に置かれ、首都パリはナチスに占領されます。フランスにはナチスに協力する「対独協力政権」が誕生したことを、みなさん世界史で学びましたね。ここフランスからも多くのユダヤ人がアウシュビッツ強制収容所に連行されていきました。このユダヤ人探索に絶大な威力を発揮したのが、コンシェルジュの「密告」でした。コンシェルジュこそが、ユダヤ人をアウシュビッツに送り込む“装置”として利用されたのです。さきほどの「言葉が背負う暗い過去」とは、このことを指します。

カトリック寄宿学校での少年たちの友情をテーマに、ユダヤ人との別離を描いたルイ・マル監督の「さよなら子供たち」をご覧になった方は、この歴史を振り返って頂けるでしょう。



sayonara
写真3(「Au Revoir Les Enfants(さよなら子供たち)」はルイ・マル監督の自伝的作品です)

日本の大物政治家(いまなお副総裁兼財務大臣という要職にあり、不見識な発言を繰り返しています。なぜ失脚しないのか不思議なほどです。わたしにとっては不愉快極まりない存在です)がかつて、憲法改正論議の中でこんな発言したのを皆さん覚えていますか。この政治家は当時も副総理の要職にありました。安倍政権が虎視眈々と狙う憲法改正論議を促進しようと、危険極まりない暴言を吐いたのです!

「(ナチス政権下のドイツでは)憲法がある日、気が付いたら、(民主的で先駆的な)ワイマール憲法からナチス憲法に変わっていたのですよ。だれも気付かないうちに変わっちゃった。あのナチスの(巧妙な)手口を学んだらどうかね」(かっこ内は筆者が加筆)



麻生太郎
写真4(品位のかけらもなく愚かな発言を続ける大物政治家。だれだか分かりますね)

この発言に対し、国内はもとより海外からも「ナチスを見習うとはどういうことだ」と批判が巻き起こり、件(くだん)の政治家をもってしても、発言を撤回せざるを得ない事態に追い込まれました。(その後も性も懲りずにノー天気な発言を続けているから愚か者です)

ナチスの独裁政権が侵略と虐殺を繰り返し、欧州を蹂躙した歴史は払拭できない事実。欧米でこの史実を肯定的に受け止める政治家など聞いたためしがありません。仮にこんな発言をしたら、即刻、政治の舞台から引きずり降ろされるでしょう。

歴史認識を欠如した政治家の存在こそが、日本の政治の貧困さを象徴していると思います。わたしたちはいまなお、ナチス・ドイツの辿った誤りの歴史と向き合い、多くを学ばねばならないのです。

沈黙の祈りが意味するもの

「働けば自由になる」。



アウシュビッツを訪れ、このゲートをくぐったわたしは、戦争の狂気と恐怖に身がすくむ思いに駆られました。ユダヤ人に限らず、異なる民族や宗教、文化的背景を持つ人々がいかに共存していくか。それは人類共通の課題であり、過ぎ去った過去ではなく現在進行形でわたしたちに熟考を迫っている。こう強く思います。


前回の最後に、ナチス同様、軍国主義に突き進んだ日本について触れました。戦争という魔物に取り憑かれ、中国やアジア諸国を蹂躙し、言葉に尽くせぬ残虐な行為を繰り広げた日本。アウシュビッツはその日本に対しても戦争の闇の深さを語り掛けているのです。

昨年暮れ、アウシュビッツから発信された一本のAFP電に目が留まりました。それは、ドイツのメルケル首相がアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れたことを伝えるもので、首相のワンフレーズとともに脳裏に焼き付いています。



「ナチスが犯した罪を認めることはドイツのアイデンティティの極めて大事な一部です」



メルケル首相
写真1(「働けば自由になる」と書かれたゲートをくぐるメルケル首相=左から2人目)

記事によると、ホロコースト(大量虐殺)の象徴であるアウシュビッツの跡地をドイツの首相が訪れるのはメルケル氏が3人目。1945年1月27日に同収容所がソ連軍によって解放されてから75年になるのを記念した訪問でした。メルケル氏はこの場で、さらに強いメッセージを発しています。耳を傾けてみましょう。


「ナチスによる犯罪の記憶は、決して終わることのない国家責任です。1940年の収容所開設以来、45年に解放されるまで、100万人ものユダヤ人が命を落としたここアウシュビッツでの出来事は、ドイツにとって『深い恥』です」


メルケル氏は近年、ドイツ国内で台頭する人種差別主義やヘイトクライム(憎悪犯罪)に憂慮を示し、「反ユダヤ主義と闘うためには、アウシュビッツの記憶が繰り返し、繰り返し語られ、そのおぞましい記憶を現在、そして未来に繋いでいかなければならない」とも語りました。そのうえで、アウシュビッツの維持費用として6000万ユーロ(約72憶円)をドイツ政府が寄付する方針も表明したのです。


戦争責任を全面的に認め謝罪し続けるドイツの歴代政権。アウシュビッツの歴史を「恥」と言い切る指導者の勇気に共感します。メルケル首相が旧東ドイツの出身であることも根底にあるのでしょうか。ドイツと同様、日本は戦時中、中国・東北地方に満州国という傀儡政権を樹立し、朝鮮半島を植民地化して支配下に置きました。しかし、戦後、その責任を総括することも、両国に謝罪することもなく現在に至っています。

1990年1月、当時長崎市長だった本島等氏は「昭和天皇にも戦争責任はあると思う」と発言し、右翼に銃撃されて瀕死の重傷を負いました。みなさん覚えていますか。さきの大戦で多くの若者が天皇の名のもとに戦地に赴き命を落としました。戦死者は実に300万人に及びます。責任の所在はどこにあるのか。その重い問いは不問に付されてきたのです。


本島市長狙撃
写真2(本島等長崎市長が右翼に狙撃された事件を報じる朝日新聞)

日本各地で朝鮮人の排斥を訴えるヘイトスピーチが横行し、街頭で異論を唱える人たちと激しい衝突を起こしている現状をみなさんご存知でしょう。中国や韓国に居丈高な姿勢を貫く安倍政権を支持する目に見えない層(ネトウヨを含め)がはびこっています。その根源を辿れば、さきの大戦へと行き着くのです。


ヘイトスピーチ
写真3(川崎市ではヘイトスピーチのデモを発端に騒然とする場面もありました)

ドイツと日本は敗戦の焼け跡から未曾有の復興を果たし、ともに経済的繁栄を成し遂げました。しかし、自ら戦争責任を認め、謝罪を繰り返すドイツとの隔たりはあまりに大きいと言わざるを得ません。


アウシュビッツには歴代のローマ教皇も足を運んでいます。2代前のヨハネ・パウロ二世はアウシュビッツに近いクラクフの出身。続くベネディクト16世はドイツ人で、ミュンヘンの大司教から教皇に就任しました。2人はそれぞれ1979年と2006年に訪れました。


そして、昨年11月に日本を訪問したフランシスコ教皇は2016年7月にアウシュビッツを訪れています。その際、過去の教皇とは異なり、「沈黙」の訪問を望みました。いっさい演説をすることなく、現場でただ祈りを捧げる。その姿がいまなお脳裏に焼き付いています。



フランシスコ
写真4(アウシュビッツを訪れたフランシスコ教皇は沈黙のまま祈りを捧げました)

フランシスコ教皇の来日に想を得て始まった今回の旅は、随分長い道程を辿ってきました。もう少しお付き合いください。

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