「ARBEIT MACHT FREI」
2020年04月
「ARBEIT MACHT FREI」
大げさなタイトルを掲げてみました。「地球を動かしたまち」。その疑問に答えましょう。
いまわたしたちはポーランドの古都クラクフに来ています。目的地は、クラクフ郊外にあるアウシュビッツ強制収容所の跡地であることは前回お話ししました。
しかし、せっかくクラクフに来たので、「ちょっと寄り道」をしたくなります。このまちには、立ち寄る価値のある場所がたくさんあります。素通りするのはもったいない。少し探索してアウシュビッツへ向かうこととしましょう。
みなさんは天文学に興味がありますか? 身近なところでは、日食や月食、最近スーパームーンの写真が紙面に紹介されていて、その大きさにびっくりしました。これらは、いずれも地球と月、太陽の位置関係が絡んだ現象です。
地球が自ら動いていることは、小学生でも知っている常識です。
地球はほかの惑星とともに太陽の周りを自転しながら公転しているー。これを疑う人はいませんね。しかし、中世までは違いました。宇宙の中心はあくまで地球であり、その周りを太陽や月などが回っている。この「天動説」こそが「常識」だったのです。
15世紀に入り、ポルトガルやスペインなど欧州諸国が大航海時代を迎えると、その常識は一変します。船舶が大海原を航行し、羅針盤の技術が発達する中で、天空に輝く太陽や月、星が大事な指針となっていきます。研究が進むにつれ、天動説では説明できない現象が明らかになり、天文学者から異論が唱えられるようになります。
写真1(天文学史上、最も重要な発見とされる「地動説」を唱えたコペルニクス)
そんな時代に登場したのが、みなさんご承知のニコラウス・コペルニクス(1473~1543年)。世界で初めて地動説を唱えた人物です。天文学史上、最も重要な発見として、いまなお燦然と名を刻んでいます。この世紀の天文学者を生んだのがここ、クラクフなのです! コペルニクスが歴史と伝統を誇るクラクフ大学に入学したのは1491年。大学では月の精密な軌道計算を歴史上、初めて行い、天動説に懐疑的な見解を示したアルベルト・ブルゼフスキ教授に師事したのが、天文学との出会いでした。
写真2(ポーランド屈指の名門クラクフ大学。ノーベル賞学者も輩出しています)
コペルニクスは天文学者として知られますが、実はカトリックの司祭であり、教会では司教参事会員を務め、知事、長官、法学者、占星術師でもありました。医師の資格も持っていたといいます。まさにレオナルド・ダビンチばりの「万能の天才」だったのです。
コペルニクスを生んだクラクフが「地球を動かしたまち」と称されていることを、納得していただけましたか。しかも、クラクフはダビンチにも出会える場所でもあるのです!
クラクフの旧市街を歩いていて、あまりに地味な建物なので通り過ごしてしまうかもしれません。辛子色の外壁が特徴の美術館があります。ポーランド王国時代から名門貴族として知られるチャルトリスキ侯爵家が保有、運営する「チャルトリスキ美術館」です。
写真3(見逃してしまうほど地味な美術館です。外壁の辛子色を手掛かりに)
なぜこの美術館をお勧めするのでしょう。それはルネサンスの巨匠ダビンチの描いた「白豹を抱く貴婦人」を所蔵しているからです。世界的にも数が限られているダビンチの名作の一点が、ここクラクフに存在するとは! ダビンチが一人の女性を描いた肖像画として現存するのはわずか4点。パリ・ルーブル美術館の「モナ・リザ」「ミラノの貴婦人の肖像」、ワシントン・ナショナルギャラリーの「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像」、そしてクラクフの「白貂を抱く貴婦人」です。と聞けば、訪れない手はないですね。
写真4(レオナルド・ダビンチの「白貂を抱く貴婦人」。クラクフの至宝です)
「白貂を抱く貴婦人」は1490年頃に描かれたとされますが、このダビンチの作品がなぜクラクフにあるのか、詳しい経緯は謎に包まれたままです。美術館を創設したチャリトリスキ侯爵がこの絵画を1798年に購入した記録までは遡れるそうですが…。
わたしがクラクフを初めて訪ねた時、実はこのまちにダビンチの作品があることを全く知らず、偶然立ち寄って名画と対面したのです。「驚きの瞬間」はいまなお忘れられません。
さらに世界中が知っているもうひとつのクラクフ。これが本題につながります。
1994年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督の代表作「シンドラーのリスト」をみなさん、ご覧になりましたか。この名作の舞台こそが、クラクフです。美しいまちの南部に広がるユダヤ人地区はアウシュビッツへと続く、悲しい歴史を刻んだまちなのです。
より具体的に言うと、第2次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人に対して組織的に行った大量虐殺を指します。

写真4(首都ワルシャワは中東部、クラクフは南部に位置しています)
小さいころから地図を見るのが好きでした。日本地図を眺めては、未知の世界に対するあこがれを膨らませていた少年時代を懐かしく思い出します。
では皆さん、全国の都道府県の中で、最も地形が複雑なところはどこでしょう?
わたしは迷わず答えられます。それは「長崎県」です。ぜひ長崎の地図をご覧になってください。北東部が佐賀県に接している以外はすべて海に面し、海岸線の複雑さは一目瞭然。島の数は全国最多の971! 朝鮮半島に最も近い対馬(島の北端から韓国の釜山まで約50㌔です)は福岡県よりはるか北に位置しています。さらに壱岐、平戸、五島列島、九十九島…。統計では、海岸の総延長は4203㌔に及びます。県を一つに統合する苦労を思わずにいられません。
そんな長崎県が年4回、発行している広報誌があります。タイトルは「ながさき にこり」。「にこり」とは長崎の方言なのかと思い、県の総務部広報課に尋ねたことがあります。答えは「いやいや、方言ではありません。にっこり笑う。そこから『にこり』と名付けました」。なるほど。誌面を手にした人が「にっこり笑う」。島の人びとの心をひとつに繋ぐ。深い「郷土愛」のような、ぬくもりのある温かさを、この「にこり」の響きに感じ取りました。
写真1(長崎県の広報誌「ながさき にこり」。世界遺産登録を記念した特集号です)
こう思うのは、おそらく長崎が背負ってきた歴史と関係があるのでしょう。江戸時代、日本で唯一、海外に開かれた港町として発展していきますが、一方で、みなさんご承知の通り、キリシタン弾圧の悲しい歴史、命懸けで守り抜いてきた精神文化、島々に伝わる隠れ切支丹の秘話など、異教の歴史が脈々と息づいているのです。
原爆投下を含め、残虐な死の光景が刷り込まれてきた長崎の歴史の中で、人々が守ってきた「にこりと笑う文化」にわたしは救いを見いだす思いがします。
前回まで4回にわたり九州のキリシタン大名がローマ教皇のもとに派遣した天正遣欧少年使節の物語を紹介しました。日本人として欧州を訪れたのはこの4人の少年たちが初めてです。輝かしい栄光を背負いながら、帰国後は徳川幕府が推進する禁教政策の中で、それぞれに過酷な人生を生きることになります。
栄光の船出をしたのも、盛大に帰国の歓迎を受けたのも長崎です。中浦ジュリアンが穴吊りの拷問で死んだ場所も、原マルチノがマカオへ海外追放された地も。伊東マンショが病死し、千石和ミゲルが棄教後、改宗して隠れるように日々を送った場所も。すべてはここ、長崎だったのです。
遠藤周作はカトリック教徒として、信仰をテーマにした数々の名作を残しました。仙台藩主伊達政宗がローマ教皇に派遣した支倉常長を主人公とする「侍」については以前、紹介しました。もうひとつの代表作「沈黙」の舞台として知られるのが外海(そとめ)町(現在は合併して長崎市)で、ここに遠藤の足跡を紹介する文学館が2000年に開設されました。
写真2(遠藤周作文学館のエントランス。遺稿を含め約3万点が展示されています)
遠藤はこの地を訪れるたびに、海と島が織りなす光景に感極まったといいます。新潮社から出版されている「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」から一節を引用します。
「陽光にまばゆく光る海と島とをみる時、私の胸はあたらしい感動と憩いとに充たされる。これと同じ風景を見た南蛮の宣教師たち、教えを信じた百姓や漁師のことを考える。切支丹の時代、この長崎とその周辺は、ヨーロッパ文化の中で最も源流をなすもの、あの基督教とまともにぶつからねばならなかった。それゆえ多くの迫害と殉教があり、多くの血が流れた」
長崎は比類なき価値を有する地です。2018年6月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。江戸時代のキリスト教弾圧の中で信仰を続けた希少な宗教文化が世界から高く評価されたのです。
遺産は12の資産で構成され、長崎市のほか佐世保市、平戸市、南島原市、小値賀(おぢか)町、新上五島(しんかみごとう)町、五島市、熊本県天草市に点在します。1637年の島原の乱で武装したキリシタンが立てこもった「原城跡」(南島原市)や漁村特有の信仰形態を残す「天草の崎津集落」(天草市)、幕末に潜伏キリシタンが神父に信仰を告白したことで知られる国宝「大浦天主堂」(長崎市)が主な遺産です。
写真4(長崎の大浦天主堂は日本最古の教会。正式には日本26聖殉教者聖堂と言います)
写真5(大浦天主堂の内部。ステンドグラスの光の中で信者の祈りが絶えません)
長崎の世界遺産をゆっくり巡るのがわたしの退職後の大きな夢のひとつです。12の資産を1カ月かけて巡る…。だれか長崎に詳しい方がいましたら、ぜひ教えてください。