2020年03月

少年が問う『信仰』とは

新聞は日々、さまざまな「気付き」をもたらしてくれます。



前回、ローマ教皇庁から発信された小さなニュースを端緒に、キリシタンの弾圧で殉教し、「福者」の称号を与えられた中浦ジュリアンの話を説き起こしました。400年前、日本人として初めてローマの地を踏み、教皇に謁見した天正遣欧少年使節。派遣された4人の少年の一人だったジュリアンの「最期」は極めて残酷でした。

残る3人の運命は……。そんなことを考えていたわたしは、再び、ローマから発信された共同電の記事にくぎ付けとなりました。いまからちょうど6年前。北海道新聞に掲載された記事をそのまま紹介します(2014年3月22日の夕刊第2社会面)。


伊東マンショ
写真1(少年使節の一人である伊東マンショの肖像画。関係者に驚きが広がりました)


【ローマ共同】九州のキリシタン大名が16世紀後半にローマに派遣した「天正遣欧少年使節」を務めた伊東マンショのものとみられる肖像画がイタリアで見つかった。調査に当たった北部ミラノのトリブルツィオ財団の担当者がこのほど、財団の学術誌に論文を発表した。
論文をまとめた文書保存・管理担当者のパオラ・ディリコさんによると、肖像画は北部在住の同財団関係者が所有。絵の裏には「Mansio」などと記されている。

ディリコさんは遣欧少年使節の史料の調査や専門家による鑑定などの結果、1585年にマンショらが北部ヴェネツィアを訪問した際、ルネサンス期のイタリア画家ティントレットの息子ドメニコ・ティントレットが描いたものと判断した。

肖像画のマンショは着物姿ではなく、スペイン風の衣装を着用。制作を受注したのは父と伝えられるが、衣装の特徴や画風などからドメニコが仕上げたと論文は結論づけている。
 
発見されたマンショの肖像画は2年後の2016年に東京・上野の国立博物館で初公開されました。当時16歳だったマンショの表情が生き生きと描かれた油絵は、歴史愛好家の話題を集めました。キリスト教伝来以来の日本の歴史にも新たな光が当てられたのです。

前々回、リスボンからスペインを経てローマに赴いた少年たちの旅程を紹介しましたが、あらためてその地図を見てみましょう。4人がローマにとどまらず、イタリア国内を巡った足跡が分かります。聖フランチェスコの生誕地アッシジにも立ち寄っていたとは!


少年ルート
写真2(少年たちが辿った旅程。イタリア国内を巡った軌跡が分かります)

伊東マンショの肖像画が描かれたのは、ローマから帰途に就く1585年、ヴェネツィア共和国滞在中でした。この時、4人全員の肖像画が描かれたとされますが、残念ながらこの作品以外、所在は分かりません。イタリア国内のどこかに眠っているのでしょうか?

マンショは帰国後、豊臣秀吉に謁見し、さらに長崎のコレジオで勉学を続け、イエズス会に入会。神学の道を究めるために、ポルトガルの居留地だったマカオに留学して司祭に叙階されます。その後、再び日本に戻って布教に専念する中、病に冒され、1612年に43歳で病没しました。病床では原マルチノが看取ったとの記録が残ります。


原マルチノ
写真3(原マルチノの生涯は4人の中で最もベールに包まれています)

そのマルチノはキリシタンの弾圧が強まる中、1614年にマカオへ永久追放されます。29年に60歳で死去。遺体は当時アジア最大のカトリック教会だった聖パウロ天主堂の地下に埋葬されました。信仰に全身全霊を捧げ、異国マカオで波乱の人生を閉じたのです。


マカオ大聖堂
写真4(マカオの聖パウロ天主堂跡。聖堂は火事で焼失し、正面外壁だけが残っています)

もう一人のメンバーだった千々石ミゲルは、4人の中で唯一、キリスト教を捨て、日本名(清左衛門)に改名しました。教皇に謁見し、新教皇の戴冠式にまで列席したミゲルの棄教は、キリシタン大名や宣教師たちに動揺を広げ、キリシタンの威信失墜につながります。


ミゲル
写真5(ミゲルは棄教後、命の危機にさらされながらも生を全うしました)

ミゲルの心境にどんな変化があったのでしょう。キリシタンからは「裏切り者」の汚名を着せられ、命を狙われながらも64歳の生涯を全うします。こんなミゲルに関し、3年ほど前、「ミゲルは信仰を捨てていなかった?」との見出しで、これまでの定説を覆す驚くべき記事が報道されたのです。報じた朝日新聞の記事を引用します。

「16世紀にキリシタン大名の名代として欧州へ派遣された天正遣欧使節4人の1人、千々石(ちぢわ)ミゲルの墓とされる石碑(長崎県諫早市)の地下から、キリスト教で祈祷の時に使う聖具『「ロザリオ』」とみられるガラス玉などが見つかった。ミゲルは帰国後、キリスト教を捨てたとされてきたが、覆る可能性があるという」

4人の人生はなお多くの謎に包まれており、そのベールの向こう側から現在のわたしたちに「信仰とは何か」を問い掛け続けているように思います。

『福者』になった少年

ローマ法王庁から発信された小さなニュースに目が留まったのは、2007年のことでした。記事はローマ発の共同電。内容はおおむね次の通りでした。



「江戸時代初期に日本各地で殉教した188人のカトリック信者に対し、ローマ法王庁が『聖人』に準ずる『福者(ふくしゃ)』の称号を授けることを決定した」



世界に門戸を閉ざし、伝来したばかりのキリスト教の信者を根絶した400年前の日本。188人はその過酷な時代に遭遇し、信仰に命を捧げた人たちでした。では、なぜこんな措置が取られたのでしょうか。


福者
写真1(福者を祝う式典=列福式=に向けて描かれたポスターです)

昨年11月下旬、ローマ教皇フランシスコが訪日しました。教皇の日本訪問は1981年のヨハネ・パウロ2世以来、38年ぶり2度目のことでした。実は、ヨハネ・パウロ2世が訪日した際、日本カトリック司教協議会が、1603年~39年にかけて、江戸幕府の禁教政策によって殉教した188人を「福者」に認定するよう、教皇に「直訴」したことが発端となったのです。認定に至るまで、30年もの歳月がかかりましたが、慎重かつ膨大な審査を経て、教皇の約束は果たされたのです。


ヨハネパウロ2世
写真2(教皇ヨハネ・パウロ2世は長崎を訪れた際、信者から絶大な歓迎を受けました)


福者の名簿を追っていたわたしは、一人の名前に目が留まりました。



「中浦ジュリアン」



ジュリアンは九州のキリシタン大名がローマ教皇のもとに派遣した天正遣欧少年使節のメンバーの一人です。4人で構成された少年使節については前回、8年間に及ぶ長い旅路を時代背景とともに振り返りました。

少年たちはルネサンス文化全盛の欧州・イタリアを隈なく巡り、長崎出発から8年後の1590年に帰国します。日本は戦国時代からやがて江戸時代を迎え、キリスト教徒の迫害は激しさを増していきます。メンバーの一人だった中浦ジュリアンは帰国後、どんな人生を送り、殉教者としての道を歩んだのでしょうか。


中浦ジュリアン
写真3(ジュリアンは長崎・大村藩主大村純忠の家臣の子で、頭脳明晰な少年でした)

ジュリアンは帰国後、「司祭」に叙階され、九州各地で布教を続けます。江戸幕府によるキリシタン弾圧が激化する中、キリシタン追放令が発令されても、布教を諦めることはありませんでした。殉教覚悟で地下に潜伏し、九州各地を回って迫害に苦しむキリシタンを訪ね歩いて祈り続けたのです。

地下活動は20年に及びますが、1632年、遂に捕縛されて長崎に連行され、最も残虐な「穴吊るし」の刑に処せられました。だれがこんな拷問を考案したのでしょう。頭を下にして穴に吊るすと、全身の血が頭にたまります。こめかみに小さな穴を開け、そこから数滴ずつ血液を穴に垂らすことで、ゆっくりと死に導いていく恐ろしい刑です。ジュリアンが絶命したのは穴吊るしから4日目。齢65歳。苦難と栄光に満ちた人生をこんな形で閉じるとは。



「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアンです」。


かすかな声で発したとされる最期の言葉には、日本人として初めてローマ教皇に謁見したプライドが込められていたのでしょう。

禁教を完成させたのは、徳川3代将軍家光でした。男色家として知られる家光は、国内の信者と宣教師を完膚なきまで抹殺へと導いた人物でもあります。キリシタンを次々と殺害していく光景をみると「人間はそこまで残酷になれるのか」と思わざるを得ません。


家光
写真4(3代将軍徳川家光。男色家として知られ、女性には全く興味を示しませんでした)

少年使節のすべてを書き切った若桑みどりさんの大著「クアトロ・ラガッツィ」は最終章に「ジュリアンの殉教」と題した一項を立て、残虐な結末を詳述しています。若桑さんは、徳川政権が旧態依然たる封建的体制を固守する道を選んだ17世紀初頭のわが国を冷徹に見詰めます。次の一文を読んで、皆さんもお考えください。

「スペイン・ポルトガルには日本を征服する意志がなかったにもかかわらず、国民の愛国心に訴えて仮想の外敵を作り上げ、国民の心をひとつに絞った。そのとき、キリシタンは二重の意味で血の制裁を受けなければならなかった。ひとつにはスペイン・ポルトガル帝国のスパイであるという理由によって、もうひとつは神道の敵、すなわち国体の敵であるという理由によってである。17世紀の日本におけるキリシタンの大量虐殺はこうした世界の情勢が日本の国策とからみあって起こったのである」



クアトロ・ラガッツィのうち、ジュリアン以外の残る3人の運命も苛烈なものでした。

ラガッツィからシニョーリへ

日本にヨーロッパとの出会いを初めてもたらした国。それは紛れもなくポルトガルです。



1543年に3人のポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を、6年後の1549年にはポルトガル王が派遣したフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教を。日本の歴史を変えた国…それがポルトガルなのです!

タバコ、カステラ、カルタ…。多くのポルトガル語がいまなお日本人の生活に溶け込んでいるのがその証拠でしょう。現在は欧州西端の小国に甘んじていますが、16世紀、世界に先駆けて大航海時代を迎え、世界制覇に乗り出しました。現在、南米ブラジルで使われる公用語がポルトガル語なのは、500年前のこの時代に遡ることは皆さん、お分かりですね。

前回、九州のキリシタン大名がローマ教皇に派遣した4人の少年使節が喜望峰を経て、ポルトガルの首都リスボンに一歩を標したと書きました。世界中の金銀が集積する「黄金色の街」。テージョ川の大河口に開けた商都リスボンは少年たちの眼にどう映ったでしょうか。


リスボン
写真1(リスボンは衰退したとはいえ、いまなお魅力が尽きません。哀愁のまち…)


リスボンから東へ200㌔。少年たちがローマへの行き帰りにそれぞれ3日間、滞在した古都エヴォラを訪れたことがあります。スペイン国境に近接し、迷路のように入り組んだまち並みは、まさに中世の城塞都市です。


ポルトガル エヴォラ
写真2(エヴォラの象徴といわれる大聖堂。少年たちはこの聖堂に宿泊、滞在しました)


少年ルート
写真3(少年たちのローマ往復の旅程です。リスボンが旅の拠点だったことが分ります)


まちの中心部にはカトリック大聖堂が鎮座しています。伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲルがパイプオルガンの見事な演奏を披露し、喝采を浴びた場所として記録に残ります。


いまも忘れられない言葉があります。エヴォラの市立図書館で取材した女性館長の話です。
「エヴォラの小学生は歴史の授業で、400年以上も昔、遠いニッポンからこの地にやって来た少年たちのことを必ず学びます。もちろん、帰国後、彼らが辿った悲しい運命についても。少年たちへの尊敬の念はいまも息づいているのです」

日本人が忘れかけている少年たちの記憶と運命が、たった6日間滞在しただけのポルトガルの古都で、いまなお語り継がれている。胸が熱くなりました。

少年たちの8年に及ぶ壮大な旅をどう表現したらいいのでしょう。前回、少年使節の足跡をすべて書き尽くした、若桑みどりさんの著書「クアトロ・ラガッツィ」に触れました。そのプロローグに耳を傾けることがひとつの答えになる。こう確信して、その一部を引用します。



少年たちが派遣された1582年~90年とはどんな時代だったのでしょう。



「日本では信長がその権力の絶頂で明智光秀に討たれ、秀吉が天下をとって全国統治をなしとげようとしていたころに、九州のキリシタン大名3名がヨーロッパに派遣した4人の少年は正式使節として遠く海をわたっていた」(*NHKの大河「麒麟がくる」の時代です)


4人はだれに会ったのでしょう。


「彼らはポルトガルを経てスペインにわたり、その領土に『太陽は沈まない』と言われた国王フェリペに親しく謁見した。かれらはそこからイタリアにわたり、ルネサンスの最後の栄光をまだ輝かせていたフィレンツェの大公フランチェスコ・デ・メディチの熱烈な接待を受け、芸術史上の大パトロン、ファルネーゼ枢機卿に迎えられて永遠の都ローマに入り、カトリック世界の帝王であるグレゴリウス13世と全枢機卿によって公式に応接され、つぎの教皇であり大都市建設者であったシクストゥス5世の即位式で先導を務めたのである」


グレゴリウス13世
写真4(少年たちが謁見したグレゴリウス13世。彼らがローマ滞在中に教皇は死去、新教皇シクストゥス5世が即位し、4人が即位の先導役を務めたのです!)

少年たちは何を見たのでしょう。
「彼らは、16世紀の世界地図を跨ぎ、東西の歴史をゆり動かしたすべての土地をその足で踏み、すべての人間をその目で見、その声を聞いたのである! そのとき日本人がどれほど世界の人びととともにあったかということを彼らの物語は私たちに教えてくれる。そして、その後、日本が世界からどれほど隔てられてしまったかも」

九州の戦国大名が派遣した4人の少年たちは、帰国時には21歳から22歳になっていました。「ラガツィ(少年)」は、高い教養と文化を身に付け、多言語を操る「シニョーリ(紳士)」になったと語り継がれています。

しかし、日本は戦国時代から、統一的な国家権力のもとに集約され、他の文明や宗教を排除する鎖国へと突入します。個人の尊厳と思想の自由、信条の自由を確立していく西欧社会からは決定的な遅れを取っていくのです。「ノー天気な引き籠りの時代」―。265年に及ぶ徳川独裁の江戸時代を、こう定義する視点を忘れてはならない。私は強く思うのです。

栄光は落日の序章だった

唐突ですが、みなさん長崎には行ったことがありますか?



空路で入ると、長崎県の空の玄関である「長崎空港」に到着します。

長崎空港は1975年、世界初の海上空港として開業しました。海岸から約2㌔沖に浮かぶ大村市の箕島(みしま)を開発して誕生し、3000㍍の滑走路を備えています。観光、ビジネスともに需要が高く、年間利用客は国内線で約300万人。国内路線としては上位10指に入ります。


空港(島)と陸地は箕島大橋で繋がり、橋を渡ってすぐの国道34号を南に向かうと長崎市、北に行くとハウステンボスがある佐世保市です。今回のストーリーをなぜ、長崎空港で始めたのでしょうか。実は、簑島大橋を渡ってすぐ右手にある公園に置かれた少年像のお話をしたかったからです。「南蛮」(ポルトガル・スペイン仕様)の衣装に身を包んだ4人の少年が凛々しく立っています。注意していれば、車窓からでも必ず確認できるはず!



大村・少年像
写真1(長崎空港近くの公園に設置された天正遣欧使節の4人の少年像)



前回、支倉常長がローマ教皇に謁見した慶長遣欧使節から遡ること30年、九州のキリシタン大名が派遣した4人の少年たちが、ローマ教皇のもとを訪れていた、と書きました。この史実は「天正遣欧少年使節」として知られ、おそらく高校時代に日本史の授業で学んだはずですが…忘却の彼方でしょうか。


少年ドラマ
写真2(4人の物語はいまの時代にも生きています。2019年にはドラマ化されました)


少年たちがローマに向かったのは、戦国時代の1582年(天正10年)。派遣したのは、九州のキリシタン大名である大村藩主大村純忠と、同じく長崎の島原を統治していた有馬晴信、大分を支配していた大友宗麟(そうりん)。前例のない宗教ミッションでした。


フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝道したのは1549年です。ザビエルが入国した九州を中心に信者は急速に広がり、伝道から30年で約30万人規模に達したとされます。ポルトガルやスペイン、イタリアから、宣教師が続々と来日して布教を強化する中、現在の長崎県で先頭に立っていたのがイエズス会所属のイタリア人宣教師ヴァリニャーノ神父でした。


このヴァリニャーノ神父のアイデアで生まれたのが、日本の若い少年を教皇のもとに派遣する「奇策」でした。世界の最果てニッポンでもカトリックの布教は順風満帆に進んでいる。ローマ教皇や欧州諸国にこうアピールし、布教実績を誇示するのが最大の狙いだったといっていいでしょう。


4人はいずれも長崎の島原にあったセミナリオで学んでいた13歳と14歳の男児。いまでいえば中学2、3年生の少年たちでした。


セミナリオとは日本語で神学校と訳されますが、イエズス会の司祭や修道士を育成するための初等教育機関です。神学から哲学、文学、天文学に至るまで、当時の欧州の先端知識が教えられていました。欧州で発明された最新の印刷機も設置されていました!



4人の名前を聞いたことがありますか? 

伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マチルノ、中浦ジュリアン。いずれも洗礼名です。マンショは宗麟の縁者、ミゲルは純忠の甥で晴信の従兄弟、マチルノとジュリアンはともに純忠の家臣の子です。セミナリオで成績トップのエリート集団! ローマ教皇に謁見しても恥ずかしくない「優秀かつ美貌の少年」として選抜されたのです。



支倉同様、少年たちのローマ往復には8年もの歳月を要しました。太平洋を横断した支倉と異なり、少年たちはインド洋から喜望峰を経てポルトガルの首都リスボンに一歩を標します。欧州は幾度もの海難を乗り越え、命懸けで到着した未知なる大地だったのです。


リスボン大航海
写真3(欧州に第1歩を標したリスボンの港。現在は「発見の広場」の石像が聳えます)



旅の詳細を知りたい人にとって必読の書があります。美術史家・若桑みどりさんが著した「クアトロ・ラガッツィ~天正少年使節と世界帝国」(集英社文庫、上下)。少年使節のすべてを書き尽くし、2004年度の大佛次郎賞を受賞した超大作で、これが若桑さんの遺作となりました。クアトロはイタリア語で「4」、ラガッツィは同じく「少年」の意味です。



クアトロ
写真4(若桑さんの遺作となった著書「クアトロ・ラガッツィ」)


支倉常長の「不運の最期」を知っているわたしたちは、想像できます。4人の少年たちが輝かしい栄光に包まれてローマ教皇に迎えられ、帰国後は想像を絶する過酷な運命に晒されたことを。常長同様、なす術もなく沈黙を保ち、力尽きていったことを…。



棄教、拷問、海外追放、病死。日本初の殉教者としての系譜がここに刻まれるのです。

ギャラリー
  • 憲法は平和を念願する証しだ
  • 憲法は平和を念願する証しだ
  • 憲法は平和を念願する証しだ
  • 憲法は平和を念願する証しだ
  • 二重のハードルに込めた決意
  • 二重のハードルに込めた決意
  • 二重のハードルに込めた決意
  • 二重のハードルに込めた決意
  • 二重のハードルに込めた決意