2020年02月

異教徒を虐殺して守った国家

支倉常長がカトリックの洗礼を受け、ローマ教皇に謁見して帰国した日本は、異教徒を徹底排斥する弾圧の嵐が吹き荒れ、殺伐とした景色が広がっていました。




常長は帰国して2年後に52歳で死んだとされます。その死は……。自死だったのか、病死だったのか、それとも処刑されたのか。記録が何も残されていないのは不思議です。常長の墓は宮城県内に3か所存在していますが、その真偽は分かりません。常長の業績が、長く歴史に埋もれ、明治初期までの250年間、葬り去られてきた事実を考える時、「歴史の深い闇」に思いを致さざるを得ません。



支倉常長の墓
写真1(支倉常長の墓とされる仙台市の光明寺。ここに眠っている根拠はありません)



支倉を主人公とした遠藤周作の長編小説「侍」のクライマックスは最終盤に訪れます。息を飲むほど静謐で、張りつめた場面。キリスト者である筆者ならではの知見がにじむ渾身の描写に驚かされます(新潮文庫405㌻)。


遠藤・侍
写真2(遠藤周作の長編小説「侍」。終盤の展開に息を飲みます)


苦難に満ちた長い旅を共にした腹心の家臣(与蔵)と支倉との会話を引用してみます。




「ここからは……あの方がお供なされます」「ここからは……あの方が、(わたしに代わって)お仕えなされます」。侍(支倉)はたちどまり、ふりかえって大きくうなずき、黒光りするつめたい廊下を彼の旅の終わりに向かって進んでいった…。



「あの方」とはキリストを指すのは明らかです。遠藤は支倉が信仰を守り抜き、処刑されたという想定に立って、小説をエンディングに導いていきます。実はその少し前、支倉と与蔵が二人きりで会話を交わすもうひとつの印象的な場面が用意されています。



支倉は7年に及んだローマへの旅を振り返り、こう語り掛けます。

「なぜ、あの国々ではどの家にもあの男(キリスト)の哀れな像が置かれているのか。わかった気がする。人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを求める願いがあるのだな」

うつむいていた与蔵は、主人(支倉)の言葉を噛みしめるように顔をあげます。与蔵に向かって支倉は「信心しているのか、切支丹を」と小さな声でたずねると、与蔵は「はい」と答えます。「人には申すなよ」と支倉が声を潜め、与蔵はこれにうなずくのです。



磔のキリスト像
写真3(常長らが欧州の至る所で見たであろう磔のキリスト像)



「死」が避けて通れないわれわれ人間にとって、信仰とは何なのか。この普遍のテーマと向き合う感動的な描写であり、読み手の心を掴んで放すことはありません。



仙台藩の領地から外にでたことがなかった武士と家臣。それが大海原を命懸けで横断し、当時の日本人が見たこともない欧州の世界に触れた感覚とはいかなるものだったのでしょう。スペイン国王臨席のもと洗礼を受け、壮麗なバチカンで教皇に拝謁した支倉と、その場に居合わせたであろう与蔵。カトリックの信仰とその圧倒的存在に抗うことができないほど衝撃を受けたことは想像に難くありません。


17世紀の日本は、キリスト教禁止令から鎖国体制へと突き進みました。時の権力者だった徳川幕府が異教徒、つまりキリスト教徒を根絶していく手法は、あまりに非人道的であり、その残虐性において現代のジェノサイドにも等しい行為だったといっても過言ではありません。あえて言えば、わが国は異教徒を虐殺して守り抜いた国家だったのです。


人権という概念も意識も存在しなかった時代とはいえ、「異物」を過剰なまでに排除して守ろうとした「国家」とは、一体何だったのか。21世紀を生きるわたしたちにとっても、本質的な問い掛けではないかと思います。


異なる宗教、言語、文化間の対立で、いまなお破壊的な行為が繰り返されています。言論を封じるため、多くの血が流されています。たとえば、パレスチナにおいて、イラン・イラク・アフガニスタンなど中東諸国においても…。独裁国家北朝鮮は言うに及ばず、共産党の一党支配が続く中国もこうした範疇から逃れられないでしょう。信仰や思想の自由があまねく浸透していない現状から目を背けるわけにはいかないのです。



遠藤周作の「侍」を読み進めると、ちょうど中盤あたりで、スペインを行く支倉らの一行を目撃した現地の人がこう語り掛ける場面があります。「ずいぶん前、九州生まれの14、5歳の少年たちが同じような切支丹の使節としてこのエスパーニャに参ったよ」



4人の少年
写真4(九州のキリシタン大名が4人の少年をローマ教皇のもとに派遣しました)



実は日本からは、支倉から遡るところ30年。九州のキリシタン大名が派遣した4人の少年がローマ教皇に謁見するという苦難の旅を遂げていたのです。

ハポンさんが映す光と影

まずは、この写真を見てください。薄いグレーのジャケットを纏い、沿道の人たちに笑顔で手を振っているのは。そう。現在の天皇陛下。ここを訪れたのは皇太子の時代でした。




コリア・皇太子

写真1(満面の笑みを振りまく当時の皇太子。いつ、どこを訪れたのでしょう)




2013年6月。訪問場所は、スペイン南部アンダルシア地方の中心都市セビリアに近い人口2万人のまち、コリア・デル・リオです。スペインの小さな町を皇太子が訪れたのには訳がありました。その経緯を説明しましょう。


実は、コリア・デル・リオには、スペイン語で「日本」を意味するハポン(JAPON)という姓を持つ人が約700人も暮らしているのです。そして、彼らは「日本の侍の子孫ではないか」と言われています。スペインのまちに、侍の血筋を引く人たちが暮らしている……。これはいったいどういうことでしょう。


まちの東側にはグアダルキビル川という大きな川が、大西洋に面したカディス湾に向けて流れています。400年前、この川を遡上してコリア・デル・リオに上陸した日本人の集団がいた! というと皆さんお分かりですね。伊達政宗の命を受け、支倉常長が率いた慶長遣欧使節の一行です。


支倉たちは、太平洋と大西洋を横断する長い、長い航海を経て、スペイン上陸の一歩をこの地に標(しる)しました。通商交渉の目的を果たすため、ここからマドリッドに向かいスペイン国王に拝謁、さらにローマへと向かいローマ教皇にも謁見したのです。


目的は果たせず、失意のうちに帰国の途に就きますが、帰路、再びこのまちに滞在した一行の中で、10人ほどが日本に戻らず、コリア・デル・リオにとどまった……というのです。


現在、このまちに暮らすハポン姓の人たちは、この地に残った遣欧使節の子孫で、日本の侍の血が流れている! こう信じられてきました。


ハポン姓の人たちと日本人との関係については、DNA鑑定などによる研究も行われてきましたが、不明な点が多く、解明されていません。ただ、このまちには古くから稲作の技術や習慣が伝わり、ハポン姓の赤ちゃんには日本人特有の蒙古斑が見られる。さらに使節が訪れる以前にはハポン姓は存在しなかったことなどから、日本人の子孫との説が有力です。


市役所の正面玄関には、スペイン国旗、市旗と並んで日の丸が掲げられています。日本とのつながりを大切にする象徴的な光景といっていいでしょう。


市役所
写真2(市役所には常に日の丸が掲げられています)


天皇陛下が皇太子の時代に訪問した2013年は、ちょうど慶長遣欧使節の400周年に当たり、両国を挙げて記念行事が行われました。ハポン姓の人たちが、現地を訪れた皇太子を熱烈に歓迎する姿は大きく報道されたので、覚えている方も多いでしょう。一方、仙台でも同様の交流行事がにぎやかに催されました。



コリア仙台
写真3(2017年にはコリア・デル・リオ市長=左=らが仙台を訪れ、常長の墓がある光明寺で市民と交流しました)


わたしは北海道新聞のパリ特派員を務めていた時代、ハポンさんの取材でこのまちを訪れたことがあります。中心部を歩いていると、何のアポイントメントも取っていないのに、周りにハポンさんが集まってきて、「日本から来たのかい。家に来い」と招かれ、昼食をご馳走してくれたのです! アンダルシアの美しい白壁の街並みの中に、400年前、この地を踏んだ支倉常長を見たような………。侍の姿は夢か、それとも幻か。いまもふと、不思議な感覚に襲われることがあるのです。



コリア市街
写真4(コリア・デル・リオの中心部。アンダルシア地方特有の明るさに満ちています)



前回、「支倉常長の7年に及ぶ長い旅に寄り添ったスペイン人宣教師ルイス・ソテロはどうなったのでしょうか」と書きました。ソテロは鎖国・禁教政策が取られていた日本への入国は認められず、マニラで留め置きとなりました。しかし、日本での布教の情熱はやむことなく、1622年、中国船に潜入して薩摩へ密入国。不運にもすぐ発見されたソテロは、現在の長崎県大村市の牢に閉じ込められ、2年後、火あぶりの刑で殉教した、と記録に残ります。

なぜ弾圧の嵐が吹き荒れる日本へ。ソテロを布教に走らせたものは何だったのでしょうか。支倉と再会することなど叶うはずもありません。信仰を貫き、拷問の末、処刑されるか。それとも転んで(棄教して)生を得るのか。二者択一。これが「時代の宿命」だったのです。



支倉常長の旅から現代のわたしたちは何を学ぶべきなのか。わたしが最初に投げ掛けたこのテーマについては、次回から考えたいと思います。

沈黙が意味する悲運の使命

仙台藩士支倉常長ら一行のスペイン国王、ローマ教皇謁見の旅の足跡は、現在、常長の銅像が建立されている世界各地の場所をみると明らかです。



太平洋を横断して新大陸に最初の一歩を記したメキシコ・アカプルコにはじまり、キューバの首都ハバナ、スペイン南部セビリアに近いコリア・デル・リオ、イタリアの港町チヴィタヴェッキア、フィリピンの首都マニラ…。前回掲載した航路を見比べていただくと、いずれも旅の重要な拠点であることが分ります。



支倉常長ハバナ

写真1(キューバの首都ハバナにある支倉常長の銅像。指さす方角は…日本です)



これらの銅像は、北海道ゆかりの彫刻家佐藤忠良氏が製作した、仙台城二の丸公園にある立体像をもとに造られていると聞きました。


日本からスペイン、イタリアへ。飛行機に乗れば13時間ほどで到達できる現代の世を考えると、400年前の船旅はいかに困難、かつ命懸けだったことでしょう。


常長がスペイン人宣教師ルイス・ソテロ、江戸や堺の豪商ら総勢180人を率いてローマに辿り着いたのは月の浦を出航してから2年1カ月後。無事日本に戻ったのは何と7年後のことでした。気が遠くなるほどの長い、長い旅路だったのです。




航海の顛末については、慶長遣欧使節の研究者として知られる大泉光一さんの著書「支倉常長」(中公新書)に詳しく、興味のある方はぜひお読みください。




結論からいいますと、支倉常長のミッションは大失敗に終わりました。伊達政宗が目論んだスペインとの通商関係の樹立とローマ教皇の援護は達成されるどころか完全に無視されたからです。

確かに、世界の最果て・ジパングからやってきた、ちょんまげ姿の侍への「興味本位」から、表向きは歓迎の意を示しました。マドリッドでは国王フェリペ3世が謁見し、国王臨席のもと、支倉常長はカトリック教徒の洗礼を受けたのですから。洗礼名は繰り返しになりますが「フランシスコ」です!


さらに、ローマでは教皇パウロ5世の謁見に浴し、ローマ市民権と貴族の称号を受けるという、日本人としては唯一無二の光栄を受けたのです。



バチカン
写真2(権威の象徴ともいえる豪華なバチカン内部。常長はここで教皇に謁見しました)

パウロ5世
写真3(パウロ5世の肖像画=国宝。常長が持ち帰り仙台市博物館に展示されています)



しかし、国王、教皇ともに、歓迎姿勢とは裏腹に、日本への限りない不信感、いや、憤怒にも似た感情を押し殺して面会に応じていたのです。このことを忘れてはなりません。



前回お話した通り、当時の欧州は宗教改革の激震に見舞われ、カトリックとプロテスタントの主導権争いはし烈さを増していました。軌を一にするように、スペイン、ポルトガル主導の新航海時代が幕を開け、新大陸や航路の発見とセットで信者拡大を図るという、沸き立つ時代に突入していました。


日本から派遣団が訪れたことは、当然ながら「朝貢外交」と認識され、カトリックの威光が世界の隅々にまで広まっていく吉報ととらえられる一方、時はすでに「情報化時代」。世界各国に散らばった宣教師から国王や教皇には、膨大な報告がもたらされていたのです。


支倉たちが欧州を訪れていた時、日本では何が起きていたのでしょう。徳川幕府は明確にキリシタンを邪教とみなして禁止し、国交を閉ざす鎖国体制へとかじを切りました。とりわけ禁教政策を徹底させ、宣教師の国外追放やキリシタン(切支丹)の迫害・拷問・処刑など、現代のホロコースト(大量虐殺)に通じる弾圧を強化していきます。


こうした過酷な現実を耳にした国王や教皇は、支倉らに対する不信を募らせ、ヨーロッパの人たちの評判も悪化の一途をたどります。使節を派遣した伊達政宗がキリスト教徒でないことも疑惑や臆測を招き、遣欧使節は結果的に門前払い同然の扱いを受けたのです。



使命を果たせず、7年にも及ぶ苦難を経て帰国した支倉は、沈黙を保ったまま、約2年後、51歳で死去しました。その最期はいまなお謎に包まれています。棄教したのか、処刑されたのか、自ら命を絶ったのか。そして、長い旅に寄り添ったスペイン人宣教師ルイス・ソテロの行方はどうなったのでしょうか?


「沈黙」で知られる遠藤周作のもうひとつの代表作に、常長を主人公とした「侍」(新潮文庫)があります。作品を読み進めつつ「侍」の悲運を思う時、あふれる涙が止まりません。


遠藤周作
写真4(「沈黙」と並ぶ代表作「侍」を書いた遠藤周作)

世界は激動し殺気立っていた

仙台藩主伊達政宗がスペイン国王とローマ教皇のもとに派遣する慶長遣欧使節が月の浦(現在の石巻市)を出航したのは1613年(慶長18年)10月28日のことでした。


スペインの航海技術の粋を尽くし、江戸の船大工が造り上げた帆船サン・ファン・バプティスタ号には、支倉常長やフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロのほか、江戸や堺の豪商など180人が乗船したと記録に残っています。

世紀の大デレゲーション。こう言っても過言ではないでしょう。



支倉常長
写真1(仙台藩士支倉常長)



ソテロ
写真2(スペイン人宣教師ルイス・ソテロ)



出航にあたって、当時の国際情勢をざっと振り返っておく必要があります。



現在のローマ教皇フランシスコが就任に当たり、その名を求めたイタリア・アッシジの聖人フランチェスコの話をした際、「フランチェスコが宗教改革の小さな灯りをともした」と書きました。カトリック教会の堕落、腐敗が進む中で、やがてプロテスタントと呼ばれる新しい潮流が生まれます。


慶長遣欧使節が派遣された16世紀から17世紀にかけて、欧州は宗教改革の波が押し寄せ、カトリックとプロテスタントが対立する激動の時代に突入していました。


一方、軌を一にするように、スペインとポルトガルが新航路と新大陸の発見を競い合った時代でもあります。コロンブスによるアメリカ大陸の発見はいつだったか、みなさん覚えていますか。1492年。「いよ~、国が見えた」。こんな語呂合わせで年号を記憶した方も多いのではないでしょうか。


スペイン、ポルトガルはカトリック教国です。新大陸の発見は、カトリック教徒を新世界に拡大していく政策とまさに裏表の関係にあり、殺気立っていたのです。



ローマ教皇・アレキサンデル6世は1494年、新航路を発見した国は、その航路と踏み入れた土地の領有、さらには交易とカトリック宣教を独占的に進める権利を有すると宣言しました。これはとりもなおさず、カトリックこそが世界の覇者、保守本流であり、新教プロテスタントは危険な異端分子! 高らかにこう宣言した勅令と言っていいのです。




スペインとポルトガルはそれぞれ別の方法で新世界へアプローチしたことに、みなさんはお気づきでしょうか。




日本に初めて鉄砲を伝来させたのはポルトガル人。諸説あるものの、1543年に種子島に伝わったと習った方が多いでしょう。

年号はともかく、ポルトガルはアフリカ最南端の喜望峰を回り、インド経由でゴア→マラッカ→マカオへ向かう東方航路で日本にやって来ました。



一方、スペイン人は大西洋からメキシコを経て太平洋を横断し、マニラなどを経由して日本へ向かうのです。いわば西方航路と呼ばれるルートです。メキシコはスペインが先住民族を虐殺して植民地化したため「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」と呼ばれていました。

こうした激動の時代の波が日本に及ばないわけはありません。



月の浦を出航したサン・ファン・バプティスタ号がなぜ、太平洋を横断する西方航路を取ったのか。みなさんはすでにお分かりですね。伊達政宗が派遣した遣欧使節を率いたのがスペイン人宣教師ルイス・ソテロだったからにほかなりません。この使節はローマ教皇とともに、スペイン国王との謁見を目的とした通商ミッションでもあったのです。



支倉航路

写真3(支倉常長の遣欧使節の航海ルート。太平洋を横断しメキシコを陸路横断。スペインの船隊に同乗させてもらいマドリッド、ローマへと向かいました)



ソテロについては詳細な経歴が残されています。

1574年にスペイン南部の大都市セビリアで上流貴族の次男として生まれました。名門サラマンカ大学で神学を学んだ超エリートで、語学の天才と言われています。

大学在学中にフランシスコ修道会に入会。1599年にメキシコ経由でフィリピンへ。マニラ在住中に日本人から日本語を学んで完ぺきにマスター。1603年に日本に入国し、布教活動にかける情熱は在日宣教師の間で飛び抜けていると評判でした。



語学に長けたソテロが傍にいることは、支倉常長にとっては好都合。欧州でのコミュニケーションは全く不自由がなかったといいます。



出航が長引きました。帆船は月の浦から太平洋の荒海を超え、メキシコを目指します。第一歩を記したのは西海岸のアカプルコでした。


アカプルコ

写真4(支倉常長が一歩を記したメキシコのアカプルコ。現在は世界有数のリゾート地です)

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