2019年12月

愛されるより、愛すること

イタリアを旅行するならどこを訪れてみたいですか。



首都ローマ、水の都ベニス、ファッションのまちミラノ、港町ナポリ、ルネッサンス発祥のフィレンツェ。ここまできて、次の都市はどうでしょう。


ヨーロッパ最古の大学都市ボローニャ、冬季五輪を開催したトリノ、ロメオとジュリエットの舞台ヴェローナ、南に目を向けると古代都市ポンペイ、美しい海岸線が広がるアマルフィ、映画ゴッドファーザーのロケ地パレルモ(シチリア島)…。




イタリアには何と魅力的な都市が散らばっているのでしょう。キラキラ輝いていますね。




では、アッシジはどうですか。イタリアを旅した人に、どこに行ってきましたかと尋ねて、「アッシジ」と聞いたことはあまりないのはちょっと残念です。きょうの旅の目的地はそのアッシジです。



ウンブリア州ペルージャ県にあるアッシジは、人口2万8000人。カトリックの信者にとっては、ローマのバチカンと並ぶ聖地のひとつです。一生に一度は訪れたい巡礼地、そう、イスラム教で言えばメッカのような存在といったら分かりやすいでしょうか。


聖地アッシジ
写真1(アッシジはイタリア中部にあり、丘陵の中腹に広がっています)



地図を開いてみましょう。長靴の形をしたイタリア半島のほぼ中心部、フィレンツェとローマの両都市からそれぞれ約130キロの位置に息づいています。



Inkedイタリア地図
写真2(アッシジの場所を確認してください。素通りすることが多いかもしれません)




ローマ教皇フランシスコの来日を機に思い着いた今回の思索の旅。約13憶人の信者を持つカトリック教会の頂点に立つ教皇は、2013年に即位した際、自らの名前をアッシジの聖人「フランチェスコ」に求めたと、前回紹介しました。

アメリカ西海岸の都市「サンフランシスコ」の語源であることにも触れましたね。



アッシジはフランチェスコの名を冠した聖堂と関連教会を含め「アッシジ・フランチェスコ聖堂と関連修道施設群」として2000年、世界遺産に登録されました。



まちは丘陵の中腹の細長い台地の上に、東西に広がる形で開けており、ちょうど西側の端にフランチェスコ聖堂が鎮座しています。壮麗なゴチック建築を前に聖人と向き合い、自らの信仰のあり方をあらためて問い直す場であり続けてきたのです。





まずは、フランチェスコとはどんな人物だったのか。簡単に振り返っておきましょう。





その生誕には所説ありますが、1181年か82年。日本でいうと平安時代の末期に当たります。源平合戦で平家が滅び、鎌倉幕府が誕生する、ちょうどそのころ。ヨーロッパでは「中世盛期」と位置づけられる時代です。


フランチェスコは、「アッシジに生まれた清貧の聖人」と言われていますが、実は、豪商の家に生まれ、幼少期は何ひとつ不自由のない生活を送っていました。ラテン語を学び、フランス語を習得し、当時としてはごく一握りの恵まれた家庭に育ったのです。


こんなセレブの生活をなぜ捨てたのでしょうか。それは、フランチェスコが神の啓示を聞いたからにほかなりません。アッシジ郊外の聖堂で祈りを捧げていた時、目の前にある磔のキリスト像から「私の家を建て直しなさい」との声を聞いたといいます。身にまとった衣服を脱ぎ棄て、聖言に従って生きていく決意をしたのは20歳のころでした。


「私の家」=「教会」の修復と祈りに身を捧げる献身的な姿に、志をともにする弟子が次々と集まります。12人の使徒で「小さき兄弟会」を発足させたのは1210年。兄弟会の名前はいまなお、カトリックの主要宗派であるフランシスコ会の正式名称として使われています。


アッシジクリスマス
写真3(年末を迎えた聖地アッシジ。まちの中心コムーネ広場の賑わいが想像できます)


44歳の短い生涯を閉じるまで、フランチェスコは多くの言葉を残しました。人生は決して受け身であってはならない。自ら行動を起こし能動的に生きる。「愛されるより、愛すること」というシンプルな言葉にこそ、その生き方が凝縮されているかもしれません。


大聖堂はアッシジの旧市街を東西に貫くサン・フランチェスコ通りの突き当りにあります。巡礼者とともに丘の坂道を登っていきましょう。


まもなく訪れる2020年が素晴らしい1年であることを、ともに願いながら!

貧者に寄り添い清貧であれ

2019年が暮れていきます。平成から令和へ。元号が新しくなる中、あっという間の1年だったようであり、それなりに長い時の流れであったようでもあり…。

みなさんはいかがでしたか。


今年も実に多くのニュースが駆け抜けました。そんな中で、どんな出来事に思いを寄せ、どのような映像や言葉が記憶に残りましたか。


私にとっては、まだ先日のことではありますが、11月下旬のローマ教皇フランシスコの訪日が、鮮明に脳裏に焼き付いています。タイのバンコクから羽田空港に到着し、風雨の中、タラップを降りた日のことがきのうのように思い出されるのです。



カトリック信者ではありまんが、4日間の日本滞在中、長崎、広島、東京で発せられたさまざまなメッセージに心が大きく揺さぶられたからです。




フランシスコ長崎

写真1(長崎の爆心地公園で市民と交流するローマ教皇フランシスコ) 



教皇の訪日は1981年のヨハネ・パウロ2世以来、38年ぶり2度目のことでした。

フランシスコは、格差と貧困、環境破壊など幅広い分野で積極的に発言してきたことでも知られていますが、今回の訪日で発せられたメッセージは、宗教の枠を超えて真剣に耳を傾けるべき「珠玉の言葉」に満ちていたといっても言い過ぎではないでしょう。



最大の目的は、世界唯一の被爆国である日本から、核兵器廃絶のメッセージを世界に向けて発信することにあったのは言うまでもありません。



長崎の爆心地公園と広島の平和記念公園で行われた演説で、教皇は繰り返し訴えました。「核兵器は、今日の国際社会や国家の安全保障に対する脅威から私たちを守ってくれるものではありません。そう心に刻んでほしい」(長崎)「戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの未来におけるあらゆる可能性に反します」(広島)



その訴えは、核保有に対する非難と核抑止論の否定―のふたつに要約され、内容は極めて踏み込んだものでした。




では、翻って日本はどうでしょうか。




わが国は米国の「核の傘」に頼っています。これを理由に、政府は米国と歩調を合わせ、国連の核兵器禁止条約の批准について、拒否する姿勢を崩していません。唯一の被爆国である日本こそが条約を批准して核廃絶の先頭に立ってほしい。いや、立つべきだ。教皇のメッセージには、政府に方針転換を促す狙いもあったとみていいでしょう。


「核兵器のない世界は実現可能であり、必要不可欠です」。このメッセージに対し、日本は「核兵器禁止条約は非現実的で夢想家の夢」と門前払いの主張を変えません。いくら「核保有国と非核保有国の橋渡しに努める」と言い募ってみても、説得力を持たないどころか、国際社会の支持を得られない。私はこう思います。


いつまで米国の顔色をうかがって、追随外交を続けていくのでしょう。唯一の被爆国が泣いています。世界が落胆しています。


フランシスコは東日本大震災の被災者や福島第1原発事故の避難者との対話集会に出席し、東京ドームでミサを行い、出身母体であるイエズス会が設立した上智大学で学生と交流するなどして日本を離れました。ローマに戻る特別機の中では、原発について「利用すべきでない」との見解も表明しました。



教皇上智

写真2(上智大学で学生と交流した教皇。貧者に寄り添い清貧であれと説きました)



「歴史に残る業績の多くは、実現できると信じる理想主義者の熱意と努力のたまものである」。私はこの言葉を信じ、支持します。


サンフランチェスコ聖堂

写真3(アッシジのサン・フランチェスコ聖堂。カトリックの聖地です)



世界に約13憶人の信者を持つカトリック教会の頂点に立つ教皇は2013年に就任しました。名前の由来はイタリア中部アッシジに生まれた清貧の聖人「サン・フランチェスコ」に求めたのです。アメリカ西海岸の都市「サンフランシスコ」の語源ともなったアッシジの聖人です。


その生誕地は、首都ローマとルネサンス発祥のフィレンツェのちょうど中間に位置し、世界遺産に登録されています。教皇をめぐる思索の旅に出てみましょう。

感性を研ぎ澄まして見る

スペインの巨匠パブロ・ピカソと「ゲルニカ」を巡る旅が終わりに近づきました。


わたしたちは首都マドリッドの中心部にあるソフィア王妃芸術センターでピカソの傑作「ゲルニカ」と向き合っています。

縦3.49㍍、横7.77㍍。横長のモノクロの大作を前に、視線をどこに置いたらよいかと戸惑います。ふつうなら左から右へと目を移していきますが、この作品は物語を追う展開にはなっていないのです。


ゲルニカ批判

写真1(「ゲルニカ」はモノクロで色彩がなく、物足りなさを感じる人もいます)




前回、この絵は複雑なようで意外に単純だとお話ししました。4人の女性に死んだ子供、横たわる兵士を含め計6人の人間を配置し、そのほかに牡牛と瀕死の馬が各1頭、ニワトリ1羽、灯りを内在した目のような不思議なオブジェがひとつ。これが主な構成要素です。



これらが何を意味するのか。美術界ではすでに研究が尽くされているうえ、私はその専門家ではありませんので、たとえばこんな考え方があるということを列挙しましょう。


*牡牛=ファシズム・残虐性の象徴
*瀕死の馬=虐げられた人民の象徴
*灯火を持つ女性=真理・真実
*子供の死体を抱く女性=ゲルニカ爆撃の被害者
*駆け寄る女性=ソ連の隠喩(遠距離から即座に共和国を支援した国)
*建物から落ちる女性=ピカソ自身、あるいはイエス・キリストの象徴
*内部に電球が描かれた光源=神の目。すべてを明るみに出す証人
*机の上のニワトリ=精霊、平和の象徴

 

ただ、この作品に定説はありません。それは、ピカソが生前、多くを語ることなく世を去ったからです。日本ではピカソの研究家として知られる美術史家・宮下誠氏の以下の解釈が支持されているようです。


「キリスト教的黙示録のビジョン、死と再生の息詰まるドラマ、ヒューマニズム救済の希求、すべてを見抜く神の眼差し、それでも繰り返される不条理な諍いと死、人間の愚かしさと賢明さ、人知を超えた明暗、善悪の葛藤、象徴的表現の最良の結果」



みなさん、どうでしょうか。この絵の前に立ち、それぞれの部分を統合した全体の構成から、こうした分析を受け入れることができますか。



ゲルニカ研究の第一任者である宮下氏は著書「ゲルニカ~ピカソが描いた不安と予感」(光文社新書 850円)の序章で、ゲルニカへの懐疑の視点から、次のような問いを投げかけました。それは、いまなお戦争から脱却できず苦しむわたしたちにとって、本質的な意味を持つと思い、全文を引用してみます。


黒幕

写真2(原田マハさんの「黒幕のゲルニカ」=新潮文庫。興味が沸いたら一読を)




「『ゲルニカ』が戦争の愚かさを我々に迫る力を持っているとしても、『反戦画』としての『ゲルニカ』が9.11の同時多発テロとその後に展開した不条理を知るわたしたちに、身に迫る戦争の恐怖と不安を十全に告発するだけのアクチュアリティ(現実性)を持っているだろうか。抽象的な反戦のシンボルとしては機能しても、どこかお題目のような、決まり事のようなよそよそしさが漂っている。そう受け取られる劣化が『ゲルニカ』を覆っているのではないか」

「いやそうではない。劣化しているのはむしろ、わたしたちの感受性の方かもしれない。その答えは、本書を読み進める中で自(おのず)と見つかるだろう」


そう、「ゲルニカ」に関心を持った方は、宮下氏の著書を読み進め、感性を研ぎ澄まして、その答えを発見してもらいたいと思います。そしてぜひ、「ゲルニカ」を巡る旅、ピカソに触れる旅に出かけてみましょう。

ピカソ自画像

写真3(ピカソ20歳の自画像です。パリのピカソ美術館で見られます)



旅の最後になりますが、巨匠ピカソは、「レ・ミゼラブル」の著者ビクトル・ユゴー同様、絶倫でした。英雄色を好む! ピカソは生涯2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を設けましたが、愛人関係を持った女性は一体、何人いたのでしょうか。これが莫大な遺産相続をめぐる骨肉の争いに発展したことを考えると、ピカソも安らかに眠っていられませんね。



ピカソ、ゲルニカを巡る美術散歩にお付き合いくださり、ありがとうございました。

ゲルニカを巡る長い旅

名画とはときに、何と数奇な運命を背負うことか。ピカソの「ゲルニカ」を思うたびに、こんな感慨があふれてきます。

ニューヨーク近代美術館(MoMA)で“塩漬け”となった「ゲルニカ」に再び動きが生じるのは実に、30年以上が経過した1970年代以降のことでした。



まず、ピカソが73年に91歳で世を去ります。続いて、75年には独裁政権を続けてきたフランシスコ・フランコが死去しました。スペインに民主化の波が押し寄せる中で、「ゲルニカをスペインへ」との運動がにわかに盛り上がりをみせるのです。


民主化後、初の総選挙で誕生した新政権は77年、「ゲルニカ」の米国からの返還を求める決議案を国会に提出。圧倒的多数で可決されたのを受け、81年には米政府の承認のもと、首都マドリッドのプラド美術館を暫定的な保管場所として、スペインへの帰還を果たします。


プラド美術館
写真1(「ゲルニカ」が米国から移送され暫定的に保管されたプラド美術館)



しかし、今度は国内で「ゲルニカ」をどこに展示すべきかをめぐって論争が巻き起こり、収拾がつかなくなります。



誘致に名乗りを挙げたのはみなさん、想像がつきますね。

    ピカソの生誕地マラガ

    ピカソが青春時代を過ごしたバルセロナ

    ピカソが長年、名誉館長を務めたマドリッド・プラド美術館

    絵の原点・バスクの古都ゲルニカ




「ゲルニカ」はせっかくスペインに戻ったにもかかわらず、最終的な落ち着き先が決まらないまま、プラド美術館別館の小部屋で眠り続けました。何ともったいないことでしょう。



スペイン政府が妥協策として考えたのが、1992年に開館したマドリッド市内のソフィア王妃芸術センターへの保存・展示だったのです。このセンターは、いわば「ゲルニカ」を収蔵するために造られた施設といっても過言ではないでしょう。



開館当時、万一の事故に備えて、防弾ガラスが設置され、さまざまな監視システムも導入されましたが、3年後にはすべてが撤去され、いま来館者は自由に鑑賞することができます。ただし、絵画の両脇には警備員が配置されており、絵画から4メートルの距離にまでしか近づけません(4メートルのところには、金属の棒が4本、立っています!)。


ゲルニカ・ソフィア
写真2(「ゲルニカ」の前には人垣が絶えません)


爆発物の検知を含め厳重なテロ対策が取られた絵画は、世界中を見回しても、「ゲルニカ」を置いてほかにないでしょう。絵の前に立つと、不思議と悲しい気持ちに襲われるのは、ゲルニカが辿ってきた特殊な運命によるのかもしれません。



わたしたちはいま、ソフィア王妃芸術センター2階の展示室にいます。目の前にあるのは紛れもなく、巨匠パブロ・ピカソが描いた名作「ゲルニカ」です。あらためて作品と真正面から向き合いましょう。


ゲルニカ画像
写真3(「ゲルニカ」は縦3.49㍍、横7.77㍍。横長の大作です)



この作品がどのような状況で誕生したかについては、繰り返し書いてきました。ですから、わたしたちは、そこに何が描かれているのか、目を凝らして観察するのです。



「ゲルニカ」には人間の顔が六つ描かれていることが分かりますか?

目を右から左に移していきましょう。まず、建物から落下していく女性、その左手には灯火を持っている女性が。すぐ下に視線を向けると、中央に向かって走り込んでいく女性の姿が見えます。画面左側に目を移しましょう。子供の死体を抱いている女性がいて、その下には、口を開けて床に転がる兵士の死体が判別できますね。



人間のほかには、牡牛と瀕死状態の馬が画面中央と左に描かれています。濃淡がはっきりしませんが、馬と牛の間に机が置かれ、その上に一羽の鳥が描かれているのが分かりますか?



中央左側には内部に電球がある「目」のような光源がしっかり確認できると思います。右端の上部には扉の窓が描かれています。絵の構成要素はこれですべてです。一見、複雑に見えますが、意外に単純です。




この画面を凝視しながら、どうでしょう。ピカソの声なき声は聴こえてきますか。



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