2019年10月

破壊と創造はここが原点

その絵は、縦197㎝、横249㎝。パブロ・ピカソが16歳の時に描きました。



タイトルは「科学と慈愛」。



いまわたしたちは、バルセロナの旧市街ゴチック地区にあるピカソ美術館にいます。700年ほど前に建てられた城を5つ繋ぎ合わせ、ピカソの若き作品を中心に展示することだけを目的につくられたのがこの美術館です。バルセロナで青春時代を過ごしたピカソに対しオマージュを捧げる空間といっても過言ではありません。

中でも、ひときわ人だかりができている場所、それがこの「科学と慈愛」の前です。



まるで、パリ・ルーブル美術館の「モナ・リザ」と同様の賑わいです。



前回に続き、この作品を再掲します。スペイン語で「Ciencia y Caridad」といいます。


ピカソ「科学と慈愛」(1897年)
写真1:ピカソ
16歳の作品「科学と慈愛」

 

この絵を見て、作者がピカソだと即答できますか? ピカソといえば大半の人が「ゲルニカ」(マドリッド・ソフィア王妃芸術センター)や「アヴィニョンの娘たち」(ニューヨーク近代美術館)に代表されるキュービズムやシュルレアリスム期の作品を思い浮かべるのではないでしょうか。



じっくり見てみましょう。画面中央には黄色いカバーの掛かったベッドに危篤の老婆が横たわっています。その傍らで医師が患者の脈を取っています。その表情からは手の施しようのない絶望感が漂います。一方、ベッドの奥には幼児を抱えた尼僧が柔らかな眼差しで患者を見守っており、緊張感の中に安らぎを与えています。


医師が科学を、尼僧が慈愛を表しています。構成は極めて古典的。巧妙な筆致による素材感のある表現やデッサンの正確さが賞賛を集めました。もちろん、これが16歳の少年の作品であることが驚きを持って受け止められたのは言うまでもありません。




では、作品はどのような背景で誕生したのでしょうか。




ピカソはスペイン南部の港町マラガで生まれました(マラガとバルセロナ、首都マドリッドの位置関係を地図で確認してください。北部の都市ビルバオはのちほど登場します)


Inkedスペイン地図
写真2(スペイン地図)



幼少期から絵筆に親しんだピカソは、小学校時代から才能を発揮し、地元マラガでは「この少年には栄光の未来が約束されている」と注目を集める存在でした(事実そうなります)。



ピカソには愛するコンチータという妹がいました。ある日、コンチータはジフテリアに冒され、病の床に就きます。ベッドの横でピカソは神様と契約を交わしました。契約とはーー。「妹の命を救ってくれるなら自分の絵の能力を生贄として捧げ、2度と絵筆を握らない」。

願いはむなしく、コンチータは旅立ちます。



「妹は死をもって自分を画家にしてくれた」。こう確信した少年ピカソ渾身の作が「科学と慈愛」でした。最愛の妹を失った苦悩と悲しみ、科学をもってしても人の死は免れない不条理…。静謐な画面の中から複雑な思いがにじみ出てきます。

この下絵をピカソは死ぬまで手元に置き、棺の中に納めたとも伝えられます。



「科学と慈愛」こそ、ピカソが美の巨人へと昇り詰めて行く原点となった作品であり、のちに破壊と創造のエネルギーをもたらす契機となりました。絵の前の人だかりは途切れることがありません。

 

館内では、「科学と慈愛」から4年後に描かれた「マルゴット」(1901年)も大きな人気を呼んでいます。覗いてみましょう。


マルゴット
写真2(マルゴット)




これは、ゴッホに影響を受けたピカソが点描画法を駆使した作品です。モチーフは娼婦。黄、赤、緑、黒などの原色を使い、華やかな赤色の洋服を着た女性からはけだるさが漂います。ピカソが初めてパリを訪れた20歳の時に描かれた、いわば“国際デビュー”を果たすきっかけとなった一作。




どうですか。バルセロナに行きたくなってきたでしょう!




写真1 ピカソが16歳の時に描いた「科学と慈愛」

写真2 スペイン地図。バルセロナは生まれ故郷のマラガ同様、地中海に面した港町です

写真3 ピカソの名を世界に広める契機となった「マルゴット」

父に絵筆を折らせた才能

若い人と話をする中で、口癖のようになってしまった「バルセロナへ行きなさい」。では、このまちに行く目的は? かの有名なガウディのサグラダ・ファミリア教会を見学するためでも、熱狂的なサッカーを観戦するためでもありません。若き日のパブロ・ピカソに出会うため。こうお話ししました。




バルセロナの旧市街ゴチック地区に「ピカソ美術館」はあります。1963年に開館した美術館は1314世紀に建てられた宮殿5つを改築してひとつにした建造物。歴史ある建物を見るだけでも価値があるのですが、内部にはピカソが幼年期から少年期に描いた作品を中心に4251点という膨大な作品が展示されています。



ピカソ美術館
写真1(バルセロナのピカソ美術館)




ピカソはバルセロナと同じ地中海に面した南部マラガに生まれ、18951904年までバルセロナで過ごしました。このまちで美術学校に通い、10代の多感な青春を送ったのです。



その後、ピカソはパリに移り、その後の生涯をフランスで過ごしますが、ことあるごとにバルセロナを訪ね、旧友と親交を深めました。いわば「第2の故郷」です。


本題に入る前に、ひとつ、みなさんに質問を。




ピカソ美術館があるのはバルセロナだけはありません。いくつ存在すると思いますか?




文豪ビクトル・ユゴー原作のミュージカル「レ・ミゼラブル」札幌公演にちなんで、ユゴーの女性遍歴の話をした際、パリの歴史地区・ボージュ広場に面したビクトル・ユゴー記念館をぜひ訪ねてみましょう。こう提案したのを覚えていますか。



実は、この記念館から徒歩数分の場所に「パリ国立ピカソ美術館」があります。ピカソ美術館といえば、愛好者がまず頭に浮かべるのがこの美術館。質量ともに圧倒的規模を誇っています。



パリ、バルセロナのほか、ピカソ美術館は生誕地のマラガにもあります。フンラス国内にはカンヌとニースに近いアンティーブとヴァロリスに同名の美術館があります。さらに1973年、ピカソは91歳で死去し、ニース郊外の自宅に近いヴォ―ヴナルグ城に埋葬されますが、この城もピカソの作品を所蔵していて、隠れた“ピカソ美術館”と言われています(この城は不定期に一般公開されています)。つまりヴォ―ヴナルグ城を含めると全部で6か所あるのです。



これだけ多くの美術館が存在するのは、とりも直さずピカソがギネス記録に登録されるほど多作な芸術家だったからです。生涯に描いた油絵と素描は1万3500点。版画に及んでは10万点もの作品を残しているのです。



私の自慢は、ヴォ―ヴナルグ城を除く5か所のピカソ美術館を訪ねたことがあることです(笑)。どの美術館も、それぞれ個性があって、甲乙つけがたいのですが、どこが一番好きかといわれれば、迷わず答えます。


バルセロナだと!



中世の雰囲気が漂う石畳の小路と建物が醸し出す独特の雰囲気。ピカソのエネルギーが充満する館内。ここには、画学生だったころのピカソの、「ごく普通の作品」が、これでもかというほど並んでいます。基礎を固め、習得する画家の真摯な姿勢とともに、画布からは非凡な才能がほとばしっています。絵の前に立つだけで、言葉にならないほどの感動に包まれること請け合いです。



幼少の頃から、ピカソの才能は飛び抜けていたといわれています。凡庸な絵画教師だった父親はその才能に早くから気づき、それを自在に伸ばすため、自らは絵筆を折る決断をしました。親にして、わが子への嫉妬を抱かせるほどの才能を備えていたのです。父と子の凄いところは、その才能に甘んずることなく、「基礎」を徹底的に学ぶ(ばせる)努力を怠らなかったことです。



バルセロナのピカソ美術館に行ったら、必ずや足を止め、時間を忘れて見入ってしまう作品があります。それが、「科学と慈愛」と題した油絵です。1897年、ピカソが16歳の時に描いた作品で、数々の賞を総なめにし、国内美術界で絶賛を浴びました。


ピカソ「科学と慈愛」(1897年)
写真2(ピカソ16歳の作品「科学と慈愛」)



伝統的かつ写実的な手法で描かれたこの作品は、わたしたちが親しんでいるキュービズム以降の“ピカソらしい絵”とは全く異なります。少年とは思えぬ表現力と技巧に、息を飲み、立ち尽くすのです。



写真1:中世の宮殿を改装してつくられたバルセロナのピカソ美術館

写真2:16歳にして巨匠の才能を思わせる「科学と慈愛」

バルセロナへ行く その訳は?

年を重ねるにつれ、自分がまだ10代、20代のころの情熱のほとばしりのようなものが懐かしく思い起こされることがあります。将来の道を、自らの意志で切り開こうとするそのエネルギーには、まだ見ぬ未来への漠然とした不安に打ち勝つ、怖れを知らない勢いがあったように思います。


こんなことをふと、考えたのは、わたしたちが長年、主催してきた「学生美術全道展」(学生展)がこの10月をもって、61回の歴史に幕を下ろしたからです。若い芸術家の登竜門として、道内の美術界で大きな役割を担ってきた学生展を閉じるにあたっては、選考をお願いしてきた全道展の会員の皆さまの苦渋の決断があったと聞いております。



その経緯については、私の隣で仕事を共にしている常務取締役の若林直樹さんが、全道展の交流紙「ZEN」58号(2019年9月号)に、「終わりはこれからの始まりだ」と題して寄稿しています。


高校時代、美術部に在籍しつつミュージシャンを目指した忌野清志郎さんの逸話を枕に、美術を志向する若者が全国的に減少する現状と、それと軌を一にするように学生展への出品が激減する状況に言及した上で、世界的に活躍する彫刻家安田侃さんを生んだ学生展の閉幕に寂しさをにじませつつ、若い才能へのエールを送っています。



全道で最も人口の少ない上川管内音威子府村(人口744人=2019年5月現在)には、将来の美術・工芸家を育成する目的で、村立おといねっぷ美術工芸高校が開設されています。今回、最後となった学生展には、応募作121点のうち、32点が同校から出品されました。小さな村に道内外から集う若者たちの夢が決して閉ざされることのないように。若い個性と才能を発掘し、開花できる場を、本展の中にぜひ設けてもらいたいと強く願っています。






私が「若き才能」といって、まず脳裏に浮かぶのは、画家のパブロ・ピカソ(18811973年)です。ピカソというと皆さんは、画題を徹底的に分解、記号化した、あのキュービズムの創始者としての姿を思い浮かべるでしょう。しかし、ピカソがこの境地に辿り着くには、実は、長い下積みの時代があったことを忘れてはなりません。画学生として、膨大なデッサンを描き続け、絵画の基礎を徹底的に学び、その先に確立したのがキュービズムの世界――だったのです。

 
若きピカソ
写真1(パブロ・ピカソ)


私は40年近く、北海道新聞社の記者として過ごしてきましたが、この職業も画家同様、徹底した基礎があっての仕事だと痛感しています。

「いつ、どこで、だれが、どうして、何をした」。いわゆる5WHと呼ばれる基本情報をいかに正確に盛り込み、原稿を完成させるか。その妙味が新聞原稿です。

徹底的な基礎の確立があってこそ、原稿は説得力を持つわけですが、若い記者は、こうした基礎をおろそかにして、すぐに応用編の原稿を書きたがります。まるで小説を書くように。応用編とは基礎を発展させ、より複雑な原稿に仕上げる作業を指しますが、基礎がぐらついていると、構想や展開を含めた文章構成が不安定。読む側にとっては居心地が悪く、不安になってきます。揺るぎなき土台あっての応用です。まずは基礎を徹底的に叩き込む。



これは、記者に限らず、どの職業も同じですね。




若い記者に、私が口癖のように言ってきた言葉のひとつに「スペインのバルセロナに行きなさい」があります。少し唐突ですが…。一体、バルセロナには何があるのでしょう。

バルセロナ市
写真2(バルセロナの全景)



首都マドリードと並ぶスペイン屈指の大都市バルセロナは、カタルーニャ州の州都です。地中海に面した政治・経済・文化・スポーツ(サッカー)の中心であり、まちを歩いているだけで心が浮き立つ、魅力あふれるまちです。多くの人が、まずは建築家アントニオ・ガウディの「サグラダ・ファミリア教会」を思い浮かべるかもしれません。



でも、私がこのまちに行けと説く理由は、ガウディではありません。

バルセロナは、さきほど登場した画家のピカソが多感な10代を過ごし、美術学校に通ったまちです。そして、ここには、青春時代に描いた膨大な作品群を展示する「ピカソ美術館」があるのです。私が勧める目的、それはこの美術館を訪ねることです。


美術館でピカソの絵の前に立った人は驚くでしょう。「これがピカソの作品なのか」と。若きピカソが描いたデッサンは、なんと「ごく普通」であったことか! その「ごく普通」の上に、世紀の画家の画業が築かれたのです。確固とした土台の上に。




バルセロナに行って若き日のピカソに出会いましょう。




写真1:ピカソはスペインで生まれ、人生の3分の2をフランスで過ごしました

写真2:バルセロナの全景。中央に聳えるのがまちの象徴でもあるサグラダ・ファミリア教会です

レミゼは巡りめぐって…

「レ・ミゼラブル」の著者ビクトル・ユゴーが1821年、幼馴染みのアデール・フーシェと結婚式を挙げたのはパリ・カルチェラタンに近いサンシュルピス教会だったーー。ユゴーの女性遍歴を紹介する中で、こんな話に触れたのを覚えていますか。

 


フランスのジャック・シラク元大統領が先日、86歳で亡くなりました。葬儀の映像を見ていて、その会場こそ、ユゴーが結婚式を挙げた教会であることに気付きました。サンシュルピスは、火災に遭ったノートルダム大聖堂と並ぶカトリックの総本山。葬儀の厳粛さとともに、創建から300年を経て変わらぬ石造りの教会の威容に心を打たれました。



 

さて、ユゴーの女性問題を巡るとりとめのない話を繰り広げてきましたが、一連の話も今回が最後。前回、女性狂いのユゴーが、いまなおフランス人の敬愛を集めているのはなぜでしょう? その真相を知るには、パリに行きましょうと提案しました。

 

目的地はビクトル・ユゴー記念館(La maison de Victor Hugo)。パリ屈指の歴史地区に指定されているマレ地区、その中心ボージュ広場の一角にあると記しました。この広場は、シテ島やパリ市庁舎、バスチーユ広場などの観光名所からも簡単に歩いて行ける場所ですが、なぜかここだけ時間がとまったような、静寂に包まれた空間です。



ボージュ広場
写真1(ボージュ広場)





この広場に面したアパルトマンにユゴーは1832年から16年間暮らしました。その居室が1902年に改装され、現在記念館として開放されています。当時、ユゴーは30歳。まだ女性狂いは始まっておらず、妻アデールとの関係は良好でした。


豪華な居室には、ユゴーが古典主義に反旗を翻したと評される戯曲「エルナニ」をはじめ、ロマン主義の旗手としての地位を不動のものとした長編小説「ノートルダム・ド・パリ」をはじめとする名著の数々が紹介されています。これらはすべて、「レ・ミゼラブル」を執筆する助走となった作品と言っていいでしょう。記念館を歩いていると、ユゴーが女性に溺れて身をやつすだけの「バカボン(ばかなぼんぼん)」ではないことが分かります。



日本では「レ・ミゼラブル」の筆者としてのみ知られるビクトル・ユゴーですが、83歳で生涯を閉じるまで、超人的といえるほどの創作活動を続けました。それは60歳を過ぎてなお、若い女性と交わる強靭な肉体と衰えぬ性欲があってこそ…かもしれません。




猛烈な創作の中で、ユゴーが追い求めたのは一体何だったのでしょうか。



ユゴーが残した言葉があります。「文学者が奉仕すべき対象は王家でもなければフランスの伝統でもない。文学は社会の不正をただし、社会的弱者を解放する手段となる。そのために、民衆は教化・啓蒙され、未来への道を開いていかなければならない。それを体現することが自らの役割である」



レ・ミゼラブルを思い起こしてみましょう。

1本のパンを盗んだために19年間、刑務所に入れられ、人間への不信を抱きつつ仮出獄した主人公ジャン・バルジャン。彼は人間愛に満ちたミリエル神父に感化され、その後、贖罪の生活を実践し、極端な自己犠牲を強いながら、神のような大往生を遂げます。



「貧困のせいで男が堕落し、ひもじさのせいで女が身を持ち崩し、暗い境遇のせいで子供がいじけてしまう悲惨な社会を放置するわけにはいかない。民衆の境遇を変えるには、この小説(レ・ミゼラブル)も無益ではないだろう」。こう書いたユゴーの言葉は、執筆への強い使命感と古い価値観から決別する意志の表れと言っていいでしょう。



仏文学者の辻昶(とおる)さんは、「人と思想『ヴィクトル・ユゴー』」(清水書院センチュリー・ブックス)で、レ・ミゼラブルを例に挙げながら「ユゴーが目指したのは文学的解放と社会的解放、さらには宗教的解放であり、これらが混然となり統一されて、ひとつのユゴー的な宇宙がつくられ、数々の名作が生み出された」と論じています。




ユゴーは19世紀前半の世にあって、常に民衆の側に立ち、社会の変革のために闘った、ある意味では史上初の文学者だったと言えます。その姿勢はミュージカルの中で歌われる「民衆の歌」の歌詞に凝縮されています。だからこそ、ユゴーの死を国民=民衆がこぞって弔い、ときに紙幣の肖像として採用され、死後134年たったいまなお国民の敬愛を集める存在であり続けている。私はそう確信します。


5フラン札
写真2(ユゴーの紙幣)

 

ミュージカル「レ・ミゼラブル」の札幌公演をきっかけに始まった「ユゴー物語」はこれで終わります。お付き合いありがとうございました。

 

写真1:ビクトル・ユゴー博物館があるパリ・マレ地区のボージュ広場

写真2:かつてユゴーの肖像画とボージュ広場が採用された5フラン紙幣

女狂い されどユゴー

前々回、フランスは男女の関係に極めて寛容な愛の国、仮にスキャンダルが発覚したとしても、私事であれば「それがどうしたの?」で済まされる。こんなことを書きました。

それではモラルはどこにあるのかと疑問に思う方も多いでしょう。もちろん、フランスは法治国家。レ・ミゼラブルに登場したジャン・バルジャンの宿敵ジャベールのように、社会秩序と正義を守るシステムはしっかり確立されています。ビクトル・ユゴーだって法の束縛から免除されることはありません。


「絶倫」「性欲の塊」と言われ、女性との関係を重ねていたユゴーにとって、これからお話しする「事件」は、文豪として、さらには国会議員として社会的、政治的地位をはく奪されかねない、人生最大のピンチだったといっていいでしょう。



一体何がー。






時は1845年7月5日の深夜、場所はパリ・オペラ座に近いサン・ロック通りのとあるアパルトマン(集合住宅)の一室でした。

パリ在住の画家が警察に対し、「妻の浮気の現場を取り押さえてほしい」と内偵を依頼、その申請に基づいて、警部2人が指定された部屋に踏み込んだところ、案の定、画家の妻が男性と性行為に及んでいる現場を取り押さえたのです。職務質問に男は、貴族院議員だと主張したうえ、議員の不可侵権をたてに、その場で逮捕されることを断固拒否しました。




警部は躊躇しましたが、国会議員を名乗る男のド迫力に圧倒され、その場から逃がしてしまったというのです。逃亡を許した理由については、さらに諸説ありますが、その中には「男のいち物があまりに大きくて驚いたから」といった“珍説”まであるといいます。




この男がだれだか分かりますね。そう、ビクトル・ユゴーです。




では、ユゴーとベッドを共にしていた女性は?

leonie
写真1

この女性はレオニー・ビヤール(L éonie Biard)と言い、職業は「小説家・劇作家」。ユゴーとは文筆をなりわいにしている共通点があります。そう、2人は1843年にパリの文学サロンで知り合い、それから親密な交際を続けていたのです。密会場所はきまってサロン近くのこのアパルトマンでした。



もちろんレオニーは人妻です。夫はオーギュスト・ビヤール(Auguste Biard)。ビヤールは画家であるとともに探検家として知られ、北極やアマゾンを旅した経験をもとに、雄大な自然を題材とする絵画を描きました。レオニーとの婚前旅行は北極だったというので、当時としては極めてユニークなカップルだったわけです。



2人に子供はなく、レオニーは新婚直後から文学サロンに入り浸り、ユゴーと恋仲になります。すでに文学界の重鎮だったユゴーと関係を築くことは、駆け出しの女流作家にとってはまたとないチャンス。たとえ文豪の性欲のはけ口になっても…です。

しかし、オーギュストは妻の不貞を許しませんでした。用意周到に警察に内偵調査を依頼し、見事“大捕り物”に成功したー。これがことの顛末です。



議員特権を使って難を逃れたユゴーは、一時的に公的活動から遠ざかってスキャンダルが収まるのを待ちました。政治家の立場を使って、ビヤールにベルサイユ宮殿の壁画を描く仕事を与えたとも言われます。ピンチを脱するのに必死だったユゴーの焦りが容易に想像できます。



一方、レオニーは姦通の現行犯で逮捕、収監され、釈放後は修道院で謹慎期間を過ごしてから社会復帰しますが、夫から離縁を宣告され、1855年に正式に離婚しました。

ユゴーはその責任を痛感したのか、正妻アデール・フーシェ、愛人ジュリエット・ドルーエに続いて、レオニー・ビヤールを「第3夫人」とし、最後まで生活の面倒をみました。女性関係の代償がいかに高くつくかを思い知ったか、知らなかったか…。




ユゴーの女性をめぐるトラブルは枚挙にいとまがなく、究極は息子の恋人を奪い取って関係を持ったこともあるといいます。ジュリエットの身の回りの世話をする小間使いの女性にもちょっかいを出し、草むらで性交したといった話まで伝わります。ここまでくると、もはや「病気」といってもいいかもしれません。




そんなビクトル・ユゴーがいまなおフランス人の敬愛を集め、どんな田舎町に行っても彼の名前を冠した通りが存在するのはなぜでしょう。ユゴーの死を国葬で送り、葬列に加わったパリ市民は200万人にのぼったといわれる、その理由は何でしょう。「レ・ミゼラブル」の発売日、書店に人々が殺到し、初版が2日で売り切れたのはどうしてでしょう?



その理由を知りたい人は、パリに行きましょう。パリを代表する歴史地区のひとつマレ地区。フランス革命の発祥となったバスチーユ広場に近接するこの地区の中心部・ボージュ広場の一角に、「ビクトル・ユゴー記念館」がひっそりとたたずんでいます。

ユゴー記念館
写真2



写真1 ユゴーの第3夫人となったレオニー・ビヤール

写真2 パリ・ボージュ広場の一角にあるビクトル・ユゴー記念館 

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